フィリップ・K・ディックの短編集を一冊読んで、その着想と思索の深さに舌を巻いた。この短編集に収められた評論の中で、「すばらしい小説であるだけでなく、この世界の理解のために何より重要なもの」と彼が名指したのが、この作品だ。ル・グィンの作品は、昨年読書会で『闇の左手』を読んでその重厚な作風に触れている。
すばらしい小説やSFはたくさんあるだろうが、多くを読むことはできないし、そもそも僕にそれを受け止めるだけの素養はない。しかし、せめて「この世界の理解」は自分なりに得たいと思うから、そのために「何より重要なもの」という本作を、放っておくことはできない。すでに絶版だが、地元の図書館の書庫から借り出して読んでみた。
登場人物は少ない。世界を書き換えてしまう「効力のある夢」に苦しむ主人公のオアと、その夢を研究・利用し世界を思い通りに作り変えようとする精神科医のヘイバ―。弁護士としてオアの依頼を受け、後に彼と愛し合うようになるヘザー。この三人の関係を通じて、世界の大胆な揺らぎをリアルに描き切っているのが、小説としての魅力だろう。
オアにとって、自分にはまったくコントロールできない夢が、世界に効力を及ぼし、もともとそうであったかのように世界とその歴史を作り変えてしまう。いったん書きかえられた世界には、オアも巻き込まれ拘束されることになる。この書き換えはいかにもSF的で突飛な設定にも思える。
しかし、僕たちの人生の経験が覚めない夢であると仮定してみると、この夢に導かれるように現実が次々に展開していく、という世界のありようは、オアにとっての世界とさほど異ならないのではないか。『天のろくろ』との違いは、現実の展開がスムーズで、小説のようには顕著な断絶や巻き戻しがない(かのように見える)ということだけだ。
しかし、この覚めない夢の始まりと終わりを考えると、本作との類似性はいっそう明らかになる。まず始まりは、なんの脈略もなくまるで任意の世界がそこに現れる。そしてこの世界は、夢を見ないことで、その存在を一挙に奪われるのだ。
ところで、今回、ル・グィン(1929-2018)の生年と没年が、僕の母親とまったく同じなのに気づいて、勝手に親しみを感じてしまった。アメリカの一級の文化人と日本の根っからの庶民とでは、まるでその生き方は違うけれども、それも彼女たちがたまたま見ることになった夢の違いなのかもしれない。