大井川通信

大井川あたりの事ども

道路族と道草族

「道路族」という言葉があることを、新聞記事で知った。生活道路で遊んで大声を発したり、他人の敷地に入ったりするなどの行為をする子どもや大人を揶揄する言葉らしい。子どもの道での遊びや、大人の井戸端会議までが批判の対象になっているのを見て、ちょっと嫌な感じになった。

道路はとにかく静かに移動する目的だけに使うもので、何より自動車の邪魔になってはいけない。道路の主役は車なのだ。というような発想を感じたからだ。

かつて道路は、人間たちが主役で、コミュニケーションの場所でもあった。そこに自動車が進出してきたとき、様々なあつれきや論争が巻き起こった。「路上」が思い入れをもって語られ、「歩行者天国」がブームになった。

今の僕の大井川歩きも、道路で立ち止まったり、きょろきょろしたり、人に話しかけたり話しこんだりすることで成り立っている。それを「道草族」と呼ぶなら、道草族こそ究極の道路族だ。

ところで、この道路族という言葉が広まったのは、ネット上にある「道路族マップ」というサイトの影響でもあるらしい。ここには、全国各地の道路族に対する苦情が書き込まれている。このマップをながめると、道路族の問題が実際には、道路をめぐる人間と自動車との対立問題ではなくて、ご近所トラブルの問題がほとんどだということがわかった。

そうなると、僕も道路族の側に一方的に肩入れすることができなくなる。自宅の前での親子のキャッチボールや、近所の公園での子どもたちの「騒音」に不快な思いをしたことがあったからだ。

実はこのサイトには、僕が今住んでいる近くの住宅街でも二か所の書き込みがある。どちらも車の通行量などほとんどない場所だ。どちらも親が率先して自宅の前で子どもを遊ばせているという苦情で、そこはお前の私有地ではないという近所の人からの書き込みにちがいない。

散歩の途中でのぞいてみると、実際にバトミントンをする親子の姿があって、ちょっと複雑な気分になった。この家族は、おそらく書き込みに気づいていないのだろう。

ただかつてのニュータウンの住民からしてみると、街に子どもの声があるというのはぜいたくな悩みだともいいたくなる。子どもの成長は早い。外遊びをする時期はすぐに過ぎて、やがて街から子どもの姿が消えてしまう。我が街でも、昨年とうとう子ども会が無くなってしまった。