大井川通信

大井川あたりの事ども

小ネタが尽きると、あっという間に地域は衰退する

新聞連載の「折々のことば」に紹介されていた、玄田有史と荒木一男の言葉。「人口が減っても、地域は簡単になくならない。だが、」のあとに表題の言葉が続く。

鷲田清一の解説はこうだ。

「東大社会科学研究所で〈危機対応学〉プロジェクトを推進した二人は、その中でこの『仮説』を得た。地域には突発的・段階的・慢性的など複層の危機が併存する。必要なのは一発勝負の大改革でなく、日々の生活に潜む、無理のない、でもちょっと楽しい、そんな手がかりの集積だと。東大社研ほか編『地域の危機・釜石の対応』から」

なるほど、と深くうなずいてしまった。

まず、ネタとは何か。それは誰かの手によって加工された情報と定義できるかもしれない。ネタには材料がいるけれども、その材料を使って、面白かったり魅力的だったりするように作られた情報がネタだ。その加工の目的は、別の誰かを楽しませることだろう。

だからネタがあるということは、最低限、作り手と受け手という二人の人間の関係があるということだ。ネタの魅力に応じて、それはもっと多くの人に開かれている。人をひきつける磁石みたいなものだ。

ネタが尽きるということは、そこに多数の人が存在するとしても、そこに新しいつながりや関係がもはや生まれないということなのだろう。それは地域の死を意味する。

僕の大井川歩きも、近所でネタを拾い集めて、それをいろいろ加工してささやかな発信をしていることになる。地域の延命に少しは貢献しているのかもしれない。

反省したのは、他者のやっている小ネタに対しては、シニカルな視線を向けてしまいがちだったことである。自分のことを棚にあげて、ついついその効果や成果から過小評価していたのだ。

地域に小ネタがあること、小ネタが連発されること自体に意味があると気づかされた。