大井川通信

大井川あたりの事ども

Hさんへの手紙

昨年11月にお会いしてから、いただいた資料の感想がすっかり遅くなってしまいました。言い訳になりますが、年末年始の長期休暇で書こうと予定していたところ、その期間完全に寝込んでしまい、正月明けもしばらく調子が戻りませんでした。年明けもバタバタしているうちに時間ばかりが過ぎてしまいましたので、年度末を一つの区切りとして、とりあえず筆をとってみることにしました。

一点目は、Hさんのいう二人称と三人称の問題があります。Hさんと同様に、僕もこの言葉をあくまで比喩として、使いたいと思います。Hさんの論考では、二人称に大きな比重を(というより全体重を)かけるものになっていると思います。さらに比喩をかさねれば、二人称を拡張して三人称を取りこむ(全三人称を二人称化する)という構想になっているかと思います。

ただ、僕としては、社会や差別や、およそ人間関係に関することは、三人称を、三人称のままに、どのように抱き込むのか、というあたりに核心があると考えています。さらにいい加減な比喩を使うと、2.5人称というような「距離」のある人間関係を、いかに自分の中に蓄えることができるか。

これは、実は自分の中で、S塾的なものに対するいわばアンチテーゼとして、自分の中で大切にしたいと密かに思ってきた格率でもあります。

Hさんの所に時々顔を出して、関係を続けたのも、もちろんHさんの人間的魅力によるところが大きいのですが、かつてのS塾とそのメンバーに対する「思想的意地」のようなものがあったのは確かです。関係がうまく行っているときやお気に入りの人間となら、だれでも対話や交流ができるだろう。真価が問われるのは、それが困難になったときの振舞いではないのか。

Aさんとの関係も、同じところがあります。今にいたるまで、友人関係というより、勉強会仲間というよそ行きの(2.5人称の)関係だったわけですが、20年間のつきあいで、不思議な信頼関係は生まれていると思います。

二点目については、やや角度や次元の違う話なので、聞き流していただけたらと思います。今の僕は、人間に限定した理論は、あまり興味をひかなくなっているところがあります。つまり、(たとえ何人称であれ)人間限定で解決がつくことがあるのだろうか、ということです。

具体的に動物や植物、自然などを理論的な最重要な要素としていれないことには、人間にかかわることも解けないのではないか。

実は今日も、およそ5時間、近所の里山の中を歩き回っていました。もともと鳥好きですが、今は動物にも昆虫にも鉱物にも関心が広がっています。家には最愛の家族として猫が二匹います。

人間は本能の壊れた動物であって、そのままでは生きられないから疑似本能である自我と文化(社会)を作りだした、しかしそれはあくまで偽物であるため、自然の本能のように調和的には働かず、様々な狂気と過剰と暴力を生み出さざるをえない、という単純なテーゼが、昨今の人間社会を見ているとまぎれもなく真実であって、これを超える人間論などないのではないか、という気がします。こうした人間が、襟を正すためには、何より自然と向き合う必要があるのではないでしょうか。

 

Yさんですが、年末には親族の人から意識を回復してリハビリを始めているという朗報がはいりました。しかしコロナもあって、まだ面会は許されていません。事情に変更があれば、またお知らせしたいと思います。コロナ禍はまだ予断をゆるしませんが、ぜひお身体にはお気をつけください。乱筆乱文はご容赦ください。