大井川通信

大井川あたりの事ども

廣松渉の忌日

今年は、丸山圭三郎(1933-2003)との対談集『現代思想の「起源」』を手に取ってみる。1993年に出版された本の2005年の新装版だ。旧版の出版の年に丸山は亡くなっているし、同い年の廣松もその翌々年には後を追うように亡くなっている。

当時岩波書店の月刊誌『思想』に掲載されたもので、とくに書物の前半にあたる対談は、1984年4月号で、その前月、つまり僕の大学生活最後の月に書店に並んだものだから、強く印象に残っている。

特集テーマを「構造主義を超えて」とするこの号には、丸山の『〈現前の記号学〉の解体』という力のこもった論文も掲載されていた。最新モードを背景にオリジナルな思想を展開して勢いに乗る丸山に対して、すでに60年代には思想的な体系を完成させていた広松は、同じ関係主義をベースにしても思想的にやや立ち遅れている印象があって、議論の中でも丸山に押されている感じがしていた。おおかたの受け取り方もそうだったろうと思う。

僕は就職して間もない研修期間中に、一度東京経済大学の今村先生の研究室を訪ねたことがある。新著にサインをもらって、そのあと二人で駅前の居酒屋で酒を飲んだ。その時出たばかりのこの雑誌の話題となった記憶があるが、先生も丸山さんへの評価が高かったような気がする。

 今、大急ぎで前半の対談を読み流してみたのだが、複雑な言い回しをしていても丸山の言いたいことはすんなりと頭に入る。当時流行した現代思想の精髄というべきものだからだ。しかし、今になってみると、その精緻で華麗で、しかしある意味単純にすぎる世界の見方とそれへの態度に、あまり魅力を感じることができない。

一方、廣松は、やたらに留保を付けたり、武骨な理論を提示したり、何かもたもた印象があって、当時はそこが物足りない印象だった。しかし、割り切りがたい現実にしつこくくいさがる思考こそ、廣松の真骨頂なのだと今は思える。