大井川通信

大井川あたりの事ども

80年代の外部なき社会(批評をめぐって③)

*80年代のイメージを、自分の好きなSF漫画や映画を使って楽しそうに論じている。北田の描く見取り図が確かな手がかりとなっていたからだろう。

   

【80年代の外部なき社会】

北田は80年代の理念型として、マスコミや資本という不可視の超越者に管理された外部なき世界のイメージ(「純粋テレビ」や「広告=都市」)を提示している。僕自身は時代の先端からほど遠い場所にいたのだが、この奇妙に明るく自閉した社会のイメージは、当時僕が嗅ぎつけていた時代の雰囲気に近い感じがする。このイメージを具現するものとして、「広告都市・東京」では映画トゥルーマンショー」が取り上げられているが、この映画から連想したのは、80年代半ばに読んだ板橋しゅうほうの漫画「アイシティ」だった。

1984年の東京は、実際は半径数百キロ、高さ数キロに限られた円筒形の内側の世界に過ぎないことが明らかになる。この限定された世界の内部で可能となる擬似超能力の使い手たちの抗争によって物語は進展していくのだが、最後に明らかになる世界の構造は次のようなものだ。宇宙空間に、途方もなく長い棒状の巨大な構造物(宇宙船?)が浮遊している。物語の舞台は、この細長い内部を輪切りに区切ったひとつのフロア「エリア1984」なのであり、このフロアの上下には無数の違った年代のフロアが連なっている・・・

この世界が人工的なものであり、日常の何気ない見かけの下に不可視の境界線(壁)が存在しているというイメージは、「アイシティ」以来、僕の偏愛するものになった。映画「13Fでは、コンピュータにより百年前の都市と人々をバーチャルに再現し体験できるシステムをつくり出した企業家が、実は自分たちの世界そのものが別の(未来の)現実世界によって生み出された擬似世界であり、自分もまた擬似人格にすぎないことを悟るようになる。この他にも、僕が手元に置いている数少ない映画ビデオのなかに、このテーマを反復しているものが多いことに気づく。たとえば、終わりのない夜の人工都市のなかで、人々の記憶の移植が繰り返されるダークシティ

これらの作品の中で、主人公たちはトゥルーマンと同様に、この世界の境界に呆然と立ち尽くし、やがて脱出を図っていく。こうした作品が繰り返し作られた背景とつながっているのかもしれないが、僕がこのイメージにひきつけられた理由は何だろうか。

83年に就職活動をし、翌年に企業に就職したのだが、当時はまだ終身雇用の慣行が強固で、会社に人生を預けるというイメージが強かった。高度成長期のあとの安定成長の時代で、ジャパンアズナンバーワンともてはやされ、経済、社会、会社への確固たる信頼がある一方、その安定した世界から逃れることができないという諦念にとらわれていたような気がする。思いがけず、3年ばかりでその世界から放擲されてしまったわけであるが。