大井川通信

大井川あたりの事ども

新型コロナウィルスに感染する ⑪(自分を閉ざす/自分を開く)

今はスマホや携帯があるから、隔離された重症の患者のもとにも、家族から励ましのメールなどが入ってくる。それが力になるケースもあるだろうが、僕の場合とにかくきつかったし、独りで痛みを受け入れ、死の運命を受け入れる覚悟を固めていたので、そのことに集中したかった。

長男を連絡の窓口にして、家族から連絡はしないようにしてもらう。こうして日常から切れた場所で、自分だけの神聖な作業に専念する準備が整った。

死を迎える場所は、慣れ親しんだ自宅がいいと言われているし、僕もそうだと思う。お世話になった叔父も、亡くなる前日に、「家に帰りたい、それが自然だから」と苦しい息で訴えていた。

ただ、この時点で、僕は酸素吸入と点滴の管なしに生きていられなかったし、感染症病棟から出ることもできない。ほかに可能性がないためだろうか、隔離病棟の狭い病室が自分の最期の場所かもしれないことに特に不満はなかった。ただこれはちょっと不思議な気がする。

一つには、やはりスタッフの方たちの手厚い治療が大きかった気がする。100%気にかけてもらえる、お世話してもらえるというつながりは、人に力を与えてくれる。

もう一つは、現代人にとって、もはや個人の死が共同体や土地に埋め込まれた「自然」なものでなく、「非日常」の経験でしかなくなっていることもあるだろう。そんな死にふさわしいのは、無機的な病室の方なのかもしれない。

最後に、これは僕の個人的な事情だけれども、病院が僕の歩き回るフィールドにあったことだ。僕は、土地の自然を思い浮かべて、点在する小さな神々と交信することができた。ご利益を信じたわけではなかったが、土地の自然と神々と共にいることから力を得ることができた。

僕は身近な日常から自分を閉ざすと同時に、土地の自然や歴史につながろうと自分を開いていたのかもしれない。