大井川通信

大井川あたりの事ども

見たくないものは見ないで捨てる

持ち物の中には、様々な過去の記録がある。その当時は、ぜひ残したいと積極的に判断していたものもあれば、自分にとっては苦痛な出来事の記録でも、いずれ役に立つことがあるかもしれないと保存しているものもある。

若い頃に書いた手紙の原稿などは、今では甘ったるくて、感覚的に読むにたえない。生理的に受け付けない。そんなものは、ためらいなく捨ててしまう。

若いころの浅はかさで、親に迷惑をかけてしまった当時の親からの手紙など、ずっと持ってはいるが、やはり今でもそれを開く勇気がない。それらも無理をして開くことなく、捨ててしまう。

若いころは、自分の過去の丸ごとを引き受けたいと思っていたし、ばくぜんとそうすることが正しいと信じていた。しかし、現実にはそんなことができるわけはなく、自分の記憶も持ち物も、さまざまな淘汰や取捨選択を受けた上で残された、ごく一部のものにすぎない。

今とこれからの自分のとって必要なものだけを残して、あとは捨ててしまう。たとえば明日一日の命しか残されていないのであれば、その一日を心楽しく過ごすための記憶と思い出だけをたずさえていたらいいのだ。

若いころ、鶴見俊輔のこんなエピソードに感心していた。鶴見は、少年時代とても嫌な奴だったらしい。大人になって良心的な思想家としての評価が定まったあとでも、子どもの時のクラス会には、自分が嫌な奴であることを忘れないために参加しているそうだ。

しかし今思うと、鶴見には、そういう振り返りを養分とできるような思想家としての活動の舞台があったのだ。もっと世俗的に言えば、自分がかつて嫌な人間だったことを受けれられる鶴見はすごい(嫌な人間ではない)と評価してくれる僕のような読者がいることを、鶴見自身が知らないわけがない。

ただの無名の平凡人が、自分の嫌な過去とただ一人向き合うためにクラス会に参加するなんてありえないし、そんなことはしなくていいのだと思う。案内状がきてもぽいと捨て、忘れられることならそれを忘れて構わないと思う。