大井川通信

大井川あたりの事ども

不器用さについて

自分のこれまでとこれからを考えていく上で、避けられないテーマは、自分の「不器用さ」ということだ。不器用なことが、いろいろネックになってきたというだけでなくて、これは自分の本質的なところに根差した特徴であるような気がする。

一朝一夕で直るものではないし、むしろそれとどんな風に具体的に付き合っていくかが大切なんだろうと思う。対処法を考えると同時に、継続的にふるまいを変えていくことが必要だ。

自分にとっては大きなテーマだから、あらたまって扱いずらいのだが、とりあえず方向性だけはメモしてみる。

不器用さの根幹は、身体を上手にコントロールできないということだろう。体育の授業が苦手だったり、スポーツが得意でなかったりしたことは間違いない。もし、不器用さと本格的に取り組むとしたら、身体操作の部分から地道に取り組んでいく必要があるだろうし、実際にそうするつもりだ。

しかし不器用さは、物理的な身体の運用にとどまらない。社会的な身体の運用とでもいうべきことに及んでいる。

これには、対人関係などで人にどう振るまっていいかわからないという不器用さと、社会的な(精神的な)仕事の段取りが上手くできないという不器用さとがある。これらは、現在は発達障害的なくくりで取り上げられるようになった部分だから、理解されやすくなっているかもしれない。

以上の二つを、仮に身体の不器用さと精神の不器用さというふうに二元論的にとらえるとしたら、さらに第三の範ちゅうと呼ぶべき不器用さがある。それは、精神と身体との連結における不器用さだ。

これは、頭の中で知識としてもっていることを、実際に活かして行動することができないという問題である。学校や試験なら、知識は知識として問われるだけだからよかったが、社会人になると、知識は具体的なふるまいとして活かされないと意味がない。僕が仕事でつまずいたのは、この点だった。

これら不器用さの重層構造は、大元の身体のコントロールの部分に鍵があるのか、もっと複雑な要因に基づくものなのか、今は見当がつかない。しかし、僕が「よりよく生きる」上で、取り組まなければならない課題であることは間違いない。