大井川通信

大井川あたりの事ども

新型コロナワクチンを接種する

8月末にステロイド剤の服用も終わり、医師の診断でも元の身体に戻ったということだったので、ようやく予約してコロナワクチンを接種する。地元の市では、すでに30代の順番に入っている。職場の同僚は、職域接種などで済ませている人が多く、ほとんどの人になんらかの副反応が出ている。

コロナワクチンについては、その話が出始めた時には、怖いしあやしいからできれば避けたいという感じだった。ただ、自分が実際に感染すると、エボラ出血熱の特効薬だの大量のステロイド剤だの、どう考えても身体に悪そうなものを投入して何とか生還させてもらった。後遺症の自覚はないものの、肺は傷だらけだろう。

感染はもうこりごりと思うし、今さらワクチンだけを避けたところでどうしようもないから、もはや抵抗感はない。感染者の動向をみると、素人目にもワクチンにそれなりの効果があることがわかる。それで、実際に接種者も増えているのだろう。

ただ、身近な人間を見ても、ワクチンをどうするか、緊急事態宣言下の行動をどうするか、といったあたりの判断は、その人の独立の判断というよりも、「組織」に属しているかどうか、そこでの連帯責任のプレッシャーをどれだけ受けているか、の要因が大きいような気がする。自分も含めて、日本人だなと思う。

指定された時間に会場に行くと、多くのスタッフと医療関係者によって、過剰ともいえるていねいな段取りによって、スムースに事前説明と待機と診療と接種が進んでいく。コロナ感染の事実を伝えると、大変でしたねと声をかけてもらう。

確かに不気味といえば不気味な雰囲気の会場だ。コロナ禍の前では、SF映画の中でしかありえないような情景だ。しかし、これを実際に動かしているのは、ひとりひとりの人間であり、人々の命を救い苦しみを少しでも減らそうという思いであるはずだ。感染してコロナの治療のシステムの恩恵を受けたからこそ、いっそうそう思う。

だから、何より不気味なのは、黙々とやってきて接種してかえっていく市民たちの無表情さ、だ。そこに感情の動き(たとえば感謝とか)をうかがえないことが、この状況下でやむを得ないこととは思いつつも、現代社会の大きな錯誤であり欠落であるように思えてならない。