大井川通信

大井川あたりの事ども

ハツカネズミたちの夢の行方

スタインベックの『ハツカネズミと人間』のオンライン読書会に参加して、思うところがあった。評論系の読書会だと、自分の読みが他の参加者と全く違うなんてことは当たり前だが、小説系だとそこまでのことはない。

日本人は、理論を語ると自分勝手な方向に行きがちだが、エピソードを語るのは上手だ。かつて文芸評論家(読書感想文の専門家)が学者以上に尊敬されて、実際に深い認識を示せたのにはそれが原因だろうと、以前考えたことがある。

まして小説系の読書会には、背伸びして思想を語るというようなタイプではなく、純粋に本好きの人が集まるから、読みのレベルが高い。おのずと読みは、小説のテーマの中心にしぼりこまれていく。

ところが、今回は、読みがまったく合わなかったのだ。この小説には、農場を渡り歩かざるを得ない労働者たちの間で芽生える友情と、自分たちの土地を持ちたいという夢、つまり最下層の労働者たちの中に息づく「美しく人間的なもの」が現実によって押しつぶされる悲劇が描かれている。すくなくとも作者の中心テーマがそこにあったのは間違いないだろう。

しかし、参加者で、これに触れた人はいなかった。参加者の関心は、登場人物たちの人物像とその関係に集中する。特に知的障害のある大男のレニーについて、その障害の在り方に興味をもったり、感覚的にマイナスに感じたりする人が多かった。また相棒のジョージがレニーを手にかけてしまうことにも違和感が出された。僕には、これらの人物や人間関係は、テーマを際立たせるための道具立てにすぎないのに、本来のテーマに触れることなく現代の感覚で彼らを裁くことが不思議でしようがなかった。

しかし、読書会の参加者は、小説読みの猛者たちだ。彼ら彼女らの読みが、今の時代ではむしろ正解なのだと思い直している。ようするに、1930年代のアメリカと現代の日本とでは、根本的に「人間」が変わってしまったのだ。

何か満たされていないと感じつつも飽食の時代に生きていて、どこかに孤立をかんじながらもオンラインで日常的につながれる環境に生きている僕たちにとっては、全身的な渇望から「土地」と「友情」を求めるようなかつての人間たちは、もはや共感不能な存在でしかないのだ。むしろ、彼らの粗野でささくれだった人間性のほうが気になってしまうのだろう。

現代に生きながら、小姑のようにこんなことが気になるのは、僕がすでにこの社会で高齢者の部類に入っているからだろう。高度成長期以前の貧しい社会を知っているかどうかはやはり大きい。そしてもう一つ。これも完全に過去の存在になってしまった文芸評論と左翼思想の薫陶を受けたということもある。民衆のみる夢、というのはそこでの大きなテーマだったから。