大井川通信

大井川あたりの事ども

追究の鬼を育てる

僕は、仕事がら教師たちと接することが多い。その仕事ももうすぐ終わるのだが、それまでに仕事関連で購入した教育書にできるだけ目を通そうと思っている。

有田和正(1935-2014)は、地元出身で、全国区で著名になり活躍した教育者として、地域の先生たちからいまでも尊敬されている。『今こそ社会科の学力をつける授業を』は、亡くなったあとに弟子にあたる先生たち(残念ながら地元の先生はいない)によって書かれた各人の有田論と呼ぶべき小文集だ。生で聞き伝える有田語録が興味深い。

「教師が追究の鬼になることですよ。教師が調べて面白いと思うまで調べまくることです・・これは、子どもたちが驚くぞというものが見つかるまで調べぬくことですよ」「1時間に1回も笑いのない授業をした教師は逮捕すべし」「ノートは思考の作戦基地」「鉛筆の先から煙が出るスピードで書きなさい」

ネタと笑いが大切であることは、教師ならぬ自分も実感できるところだ。ただ、教師という存在は、いい意味で時別な存在であると改めて感じる。有名な「追究の鬼」という言葉も、どこか大げさで作り物めくけれども、それはあくまで学校や学級という閉域の中で成立する概念だからだと思う。

先生たちの熱心な「追究」も授業のネタをつくるという目的の範囲内のもので、弟子たちの気分のなかには、有田先生に見てもらいたいという思いが忍びこんでいる。学級の子どもたちも「追究」の姿勢を先生に認めてもらおうという気持ちがつよいだろうし、教員もそういう活発な学級を誇る気持ちがでてくるだろう。

以前から、教師の技というのは、一種の体術で、道場において師匠から直伝で授かる武術と似ていることに気づいていたのだが、この本を読むと、有田道場の師弟関係もまさにそんな関係であることがよくわかる。

おのずと学級の子どもたちに対しても、同じような濃密な関係を求めるし、そのような方法論で子どもたちを育てようと考えるだろう。そしてその中で、子どもたちが力をつけることも間違いない。砂をかむような退屈な社会科の授業を受けてきた者からすると、本当にうらやましいかぎりだ。

ただ、教師ならぬ身としては、子どもの好奇心も追究も認識の力も、教室や学校の外のもっとゆったりした世界の中に、ゆるく足場をもっていると考えたい。それは、特別な仕掛けに頼らずとも(それと直接の因果関係を持たずに)自生的に育つものだし、そうだからこそ広く強く根を張ることができるのではないだろうか。