大井川通信

大井川あたりの事ども

働く工夫から生きた平和の思想が生まれる

小林秀雄(1902-1983)は、「平和という様な空漠たる観念」をモデルにするのでなく、「自分の精通している道」を究めることが大切だという。観念や空想を嫌う小林らしい言い方だが、とてもまともなことを言っていると思う。

1月のベンヤミン論のために、今いくつかのプランを考えている。ベンヤミンのテキストをできるだけ読むというのが基本だ。今までのようにつまみ食いでなく、アンソロジーなどで端から網羅的に読む。

今回の読書会のテキストの読みのためにも、手持ちのベンヤミン論に目を通して基本的な知識を得るというのが、第二のプラン。

僕が西洋の思想家の中で、例外的にベンヤミンに親近感を抱いているのは、彼が批評家であることが大きいだろう。日本の批評家たちとも肌合いが近いのだ。哲学者や社会科学者とははっきり違う何かがある。しかし、批評とは何なのか。批評家とは誰なのか。

それで、なじみのある日本の批評家の作品を、手持ちの評論集などで広く読んでみて、それをベンヤミンと比較してみる、というのが第三のプラン。

それで、まず中公文庫の小林秀雄の評論集(『人生について』1978)を読んでみたのだが、予想以上に面白かった。もともと小林自体は嫌いではないし、昔からベンヤミンに似ているなと感じていた。おおざっぱにベンヤミンとの比較をメモしてみる。

歴史についての考え方はかなり近いものがある。近代の連続的な進歩史観に反対して、過去と直接に向き合うことを歴史的な体験と考えるというあたり。

観念や概念を浮ついたものとみて、物や自然に直参することに価値を置くのが小林の眼目だが、そのため名人や達人の振舞いへと視線は向かってしまい、表現も難解になる傾向がある。ベンヤミンは、もっと日常的な経験の層をたんねんにひろいあげてくれるので、具体的でわかりやすい。

生活経験を批評のベースにする以上、たとえば霊魂のようなものも肯定することになるが、小林はそういうときちょっと及び腰だ。小林の表現装置はやや硬く狭い傾向があるので、イデオロギーを切って捨てるようなときの威勢はいいのだが、未知の何かを描き出そうとするときはとたんにぎくしゃくする。このあたり、ベンヤミンはずっと大胆でのびやかだ。

イメージ、エピソード、比喩を多く使い、それを共通了解の足場にして思考をつないでいくという共通点があり、これが「批評」の特色かもしれない。同時代の文化事象や社会事象を論じることになるから、多くの共通了解事項を前提にしたうえで、そこにオリジナルな批判をさしはさむという手法になる。すべてを根本から疑う、というそもそも論にはなりえない。

扱っている対象になじみがあるというわけで、小林秀雄の文章の意味はとりやすい。一方、ベンヤミンの方は、何を論じているのかわからない部分がほとんどだ。これは圧倒的に不利な条件といえるが、ところどころにさしはさまれた比喩には、普遍的といっていい映像喚起力がある。