大井川通信

大井川あたりの事ども

『新世紀のコミュニズムへ』 大澤真幸 2021

読書会の課題図書。課題図書の指定のある前に、僕がすでにこの本を買って積読していたのは、やはりまだ大澤真幸という思想家に期待と幻想があったからだろう。

ところが、読み出してみると、これはとんでもない本だった。冒頭、コロナ禍の解決のためには世界的連帯が必要であると誰にでもわかっているのだが、なぜ世界はそれとは反対の方向に進んでいるのか、という問いが、自明の真理のごとくに掲げられる。著者の答えは、資本主義が続いているから、というおおざっぱなものだが、そもそも世界的連帯などという言葉にリアリティを感じている人がどのくらいいるのか。信じていないものの必要性など自明であるはずはないだろう。

コロナ禍で経済活動が完全に止まったかの如くの認識が繰り返されるが、著者はその間どうやって暮らしていたのか。現実を見ていたのか。株価がさほど下がらないのは、資本主義の瀕死という現実を市場が否認しているからそうだ。この思い付きを例証するのがヒッチコックの映画『サイコ』なのだから唖然とする。

もちろん博識で優秀な著者のことだから細部だけ見れば間違ったことばかりではないだろう。しかし、そのつながりが不可解だし、一冊の本で示された論理に真面目で切実な思考が込められているようにはとても思えないのだ。

資本主義の彼岸にコミュニズムを展望できるかどうかが、本書の議論の眼目となる部分のはずだ。本の帯には「資本主義をめぐる積年の考察が、ここに結実!」と書かれている。ここに来て一見難解な議論が展開されるが、雰囲気で要約すると、こんな話だ。

資本の本性は自己増殖であり、その本性はヘーゲルの絶対精神によく似ている。絶対精神はその究極において論理的に「未来の他者」を呼び込まざるをえない。よって資本主義はその本性の発揮のさきに「脱成長コミュニズム」を招来することになる。安心してください、というわけだ。なんだこりゃ。

哲学的イメージを交えた論理の曲芸で、読者を煙にまく。学問の閉域だったり、一部の読者や編集者の間では、いまだに需要のある執筆態度なのかもしれない。しかし、この本からまじめに何らかの展望を読み取ろうとする大多数の一般の読者に対して、真剣に語りかけようという気持ちは全く感じられないのだ。著者には、そういう読者がもはや見えていないのではないか。

大澤真幸といえば、80年代から長く現代思想の分野のスターで、僕もあこがれをいだいてきた。90年代にいわゆる「現代思想」が失墜したのちも、社会学をベースとして旺盛な執筆活動を続けてきた。しかし、この本を読むと、大沢によって生き延びた現代思想も、今ではほとんど有効性を失ってしまったように思える。同世代として悲しいことだが、その事実を受け入れざるを得ない。この悲惨な本を前にして。