大井川通信

大井川あたりの事ども

動画をみる

ごく最近、競馬の動画を見るようになったことを書いたが、人並みに動画を見るようになったのは、おそらくこの二年ばかりのことである。

まずは、お気に入りのバンドの動画をあさるようになった。海外のライブだと、ファンの撮った映像があるから、それを見るとなるとかなりの量になる。それ以外でも、過去に気になったアーティストの曲も、すぐに探し出せるのは驚異だ。音楽系では、ストリートピアノを弾くユーチューバーの動画ばかり見ていた時期もある。

そのあと、なぜか格闘技やプロレスの動画ばかり見るようになった。自分が実際に好きだったのは、70年代後半のプロレスと90年代後半の格闘技くらいだが、さほど関心のなかった時代のプロレスの当事者の裏話などを、今になって聞いて詳しくなってしまった。当時の選手自らの声が聞けるのが魅力で、野球や相撲などの動画ものぞいた。

テレビのお笑い番組もしばらく遠ざかっていたが、笑いに関しては実践者としてずっと関わってきたつもりだ。特定のお笑い芸人のバラエティに絞って、過去の放送分をずっと追ってみたりした。自分の笑いのセンスがさびついていないようなのでまずは安心。動画だと、面白い細部を繰り返し見られる。動画のコメント欄を見ると、視聴者の方も、お笑いの技法の知識などがあって、かつてより見る目を持っているようだ。

素人の撮った動物系の動画もずいぶん見た。昔は、NHKの教育番組くらいでしか見ることのなかった映像だが、はるかに幅が広く、マニアックだ。いろいろのアリの生態の動画に夢中になったこともある。たとえば、僕が好きな鳥でも、野外観察とは違ったリアルで鮮明な動画が簡単にみることができてしまう。モズが小鳥を襲って食べるシーンなど、実際に観察出来たら相当ショッキングだと思うのだが。

こうしてあらゆる種類の動画が、つまり加工された文化の精髄や自然の奥深い神秘や何気ない他者の日常が、簡単に手元に呼び出され再生されるという仕組みが魅力的でないはずがない。これまでの、たとえば本という装置とくらべても、凝集度と包括度と展開力が異次元のレベルなのだ。

しかし、動画で時間を消費したあとの虚しさは何なのだろう。一冊の本を読み進めた充実感とはまるで違う気がする。これは単に慣れや習慣の問題なのだろうか。