大井川通信

大井川あたりの事ども

歴史の救済

僕は、本を読みながらというよりも、街を歩いたり、車を運転したりしながら、自分の思い付きをじっくりと考えることが多い。

ベンヤミンレポートに備える作業も、ベンヤミンのテクストを読むというより、自分の中に残存して生きている彼のイメージを何度も反芻して、つかみなおしていくということになる。結論からいうと、それはこんな感じだ。

近代以降、特に現代を生きる人間は、自分が生まれ育った環境やその後の生活の舞台が絶えず打ち壊されて、更新されていくような経験を強いられる。この点で、多かれ少なかれ一定の自然環境と共同体の中で生きてきたそれまでの人類とは、まったく異なる体験だろう。

近代以降の社会は、過去を破壊して絶えず新しい姿に生まれ変わっていくから、そのダイナミズムは魅力的だ。だから人間は、社会が進む方向に目を向けていればいいようなものだけれども、近代人は有限でひ弱な個人であることを自覚せざるをえない。

この点でも、永続する神という観念や一族の血統に自己同一化できた過去の人間たちとは決定的にちがう。未来が閉ざされた近代人は、遅かれ早かれ必然的に「確かなもの」を求めて過去を振り返えざるをえない。

過去は、絶えず打ち壊されてうずたかく積み上げられた廃墟の山だ。自分の過去の思い出であれ、もっと社会的な出来事であれ、今はスクラップ化されてはいても、目をこらせばそこにかつての充実した時間をよみがえらせることはできる。

小さな一つの出来事を「確かなもの」としてよみがえらすことができたのだから、時間と手間をかければ、もっとたくさんの過去を手に入れることができるだろう。人は、そこに希望を見出すしかないともいえるし、そこにだけは希望を持つことができるということもできる。

しかし、そういう希望を抱きつつも、有限な個人は、歴史の強風に吹き飛ばされながら、歴史の断片をにぎりしめつつ、さらに過去の廃墟が積み重なるさまを見届けざるををえない。

ベンヤミンは西欧の知的な教養と伝統のなかで考えてきた人だから、僕らからすると、文脈のつかめない突飛で難解なイメージで語っているところがあるけれども、それを変に神秘化したり秘教化したりして受け取るべきではないと思う。

近代以降に生きる人間が、社会の動きの中で当たり前に生活していくときに取らざるをえない普遍的な「態度」や「感情」を描き出しているのに過ぎないのだと思う。しかし、生活する人間のあたりまえの姿をとらえることは、実は簡単ではない。ベンヤミンが息長く読まれているのは、きっとそのためだろう。

ところで、ベンヤミンのいう「歴史の救済」とは何か。以上の理解からすると、それは特別で神秘的な技法であるはずがない。小林秀雄なら「上手に思い出すこと」というだろうが、小林の場合ちょっと名人芸の趣がある。

僕はもっと当たり前に、過去を一度思い出すだけではなくて、過去と何度もやり取りすることなのだと思う。(墓参りがそうであるように)生活の中でくりかえし思い出し、かかわることで、「上手に思い出せる」ようになり、お互いの呼吸もあってくる。それは寺山修司が描いた終戦後の焼け跡でのキャッチボールみたいなものだろう。