大井川通信

大井川あたりの事ども

『夜と霧』 ヴィクトール・フランクル 1946

読書会の課題図書で読む。

感覚的には、本当にこんなことがあったのか、あったとしてもごく例外的な不幸だったと思いたい、というのが正直なところ。

しかし、周囲(自分の内外)を振り返ると、すさまじいばかりの自然の改変(破壊)と生物の組織的な殺戮、人間同士の誹謗中傷の嵐があって、それらは強制収容所の現実の延長線上にあるような気がする。いろいろな意味で絶望しかないけれど、人間がどんなことでも理屈をつけてやってしまう「本能の壊れた動物」であることの自覚はせめてもっておきたい。

事前レポートでは、印象に残った点を三か所引用した。

制収容所において「囚人」の内面では、「過去の重大な体験ではなくて、以前の生活のごく日常的な出来事やささやかな事象の周りを、彼の考えはめぐっている」こと(125頁)。著者は「愛」や「美」のもつ力を賞揚しているが、それらと同等に、何気ない日常の体験が人間にとって本質的であることを示唆してくれる。

「具体的な運命が人間にある苦悩を課する限り、人間はこの苦悩の中にも一つの課題、しかもやはり一回的な運命を見なければならない」ということ(184頁)。実際にこういう状況になったら、こう考えざるをえないという必然をえぐっている。僕もコロナ感染症で、酸素吸入器と点滴のチューブにつながれたまま死ぬことを意識したとき、残りの時間に苦しみしかなければそれを自分の最後の勤めとして引き受けようという気持ちになったのを思い出す。

「あらゆる人間存在を通じ善と悪とを分つ亀裂は人間の最も深いところまで達し、収容所が示すこの深淵の中にも見ることができた」ということ(196頁)。どんな場面のどんな人間でも、善と悪を併せ持っているという指摘は重い。