大井川通信

大井川あたりの事ども

ある現代美術家のトークショーで考えたこと

【紙を切るということ】

阿部幸子さんは、自衛隊時代に精神の病を得て、療養中に紙を切り始めたという。

紙は無心に切るのではなく、醜いことを考えながらでないと切ることができないと言っている。以前は、死ねばいいのにとか思いながら切っていたというが、今でも雑念ぬきには切ることができないそうで、そのことからも彼女の日常の中で、その行為がどういう意味を持っているかを推し量ることができる。

その後美術家になることを宣言し、創作活動を行う一方で、それとは別に紙を切り続けていたようだ。ニューヨークに渡り、言葉の問題で孤立して制作にも行き詰っているときに、思いがけない発見をする。糸のように細く切られた紙のくずを青空に透かした時、その美しさに驚き、これが作品になるのではないかと気づいたという。

しかし、初め彼女は、紙を切る姿を直接見せることをためらったという。ベール越しだったり、自分が囲いの中に入って小さな穴を通して見せたりという工夫をしていた。彼女にとって紙を切ることは、いわば邪悪な振る舞いであり、それを直接人目にさらすことに抵抗を感じたのは想像がつく。そんな悪意ある振る舞いが生み出した紙の切りくずの予想外の美しさが、それを作品として押し出す勇気を彼女に与えたのだと思う。

もっとも彼女は、自分が切った紙の切りくずを他人に触らすことが嫌である、ともらしている。それは、邪念にまみれた彼女の一部であることに変わりないのだろう。

 

【カットペーパーズ】

阿部さんは、作品のスペースへの入り口にこだわる。それは狭い通路だったり、普段は使われていない裏口だったりする。狭い空間で紙を切り続けている阿部さんの姿は、画像では、まるで繭の中で糸をつむいでいるかのようだ。比較的広い空間を使ったリバプールの作品では、拡声器を使い実際にハサミを切る音でスペースを満たすようにしたという。彼女自身も示唆しているように、この作品の空間は、閉ざされた彼女の内面そのものの形象化なのだろう。

それが呪詛と悪意に満ちたものである限り、そこに他人を導き入れ、自分の姿を他者の視線にさらすことに対して徹底して神経を使わざるをえない。髪の分け目や肌の調子にまで気を使うというのは、自分の美しさを誇っているのではなくて、むしろ他者の視線を完全にコントロールしようという強い意志の表れなのだと思う。

彼女が純粋であり、その作品が瞑想的であるというような批評家の評価に対して、彼女自身はあからさまな反発を示している。鑑賞者が作者の意図を超えたものを受け取ったり、作品が作者の日常を浄化したりするという、ありがちで通りのいい理屈を彼女は受け付けないかのようだ。

カットペーパーズを発表し、それが世界的に評価を得るようになってからも、阿部さんは以前と変わらず毎日10時間ものあいだ紙を切り続けているという。数週間にわたる作品のパフォーマンスもその延長線上にあるのだろう。

底意地の悪い日常に踏みとどまり続けること。リバプールで多くの人に与えたという感動の淵源はきっとそこにあるのだと思う。

 

【美術家という存在】

阿部さんは、ギャラリーソープで出会った美術家たちに、初めは軽い嫌悪すら感じたと告白している。当時は、湯布院の美術館を訪ねるようなお洒落なOLだったともいう。彼女はまた、バイトをやめて美術で食べていくために、この業界で評価をされ作品が売り物になるために努力していることを隠さずに話している。

すでに美術家として高く評価されている阿部さんが、下世話ともいえるようなエピソードをあけすけに語るのはなぜなのか。

そもそも人はどうやって美術家や作家になるのだろうか。絵を描くことや、曲を書くこと、言葉を操ることに長けていれば、技術や才能というものによって、あたかも自然にそうしたものに登録されるというのだろうか。

阿部さんは、自分には「技術」がないと公言する。阿部さんが美術家になったのは、自分の宣言によってなのだ。それは美術家という存在に対する憧れがあったのかもしれないけれど、一方で強烈な悪意も感じられる振る舞いである。美術というものの制度や枠組みを揺るがすパフォーマンスといえるだろうし、その初心を日常の中の邪念とともに持ち続けていると考えるなら、先ほどの彼女の発言も理解しやすいものになる。

技術や才能というルートを通らずに、人は表現することができるのか、表現に値する何かを持つことができるのか。阿部さんの存在は、そんな問いに対する類まれな回答であるように思えてならない。