大井川通信

大井川あたりの事ども

舞台と映画

ベンヤミンのアンソロジーを読んでいて、有名な「複製技術時代の芸術作品」を再読した。以前読んだときは、そこまで強い印象は受けなかったが、今の僕にはとてもいい。マルクス的な階級闘争史観を骨格にさまざまな視点とアイデアがギュッと詰め込まれていて、カオスのような魅力をもっているが、細部における切り口に魅了される。

これを読むと、ベンヤミンが日本の同時代の批評家たちとははっきり違った能力をもっていたことが実感できる。以前それは、超越的な理念の世界への突き抜けた感受性だと思っていたが、それとともに、あたらしい技術を追尾し、それを思索の網の目にとらえる粘着力があるといっていい。

ここでは演劇と映画の違い、それぞれの俳優のあり方の違いについての考察の部分を取り上げてみたい。

演劇では、俳優も舞台装置も、舞台上でひとまとまりの独立して一貫した在り方を保障されているところがある。俳優は、役柄に同一化して演じ切ることができる。一方、映画の撮影では、俳優の演技は分割されるし、映画の世界の映像も断片化されたものが、編集過程で組み合わせられることで、一貫した世界が結果としてスクリーン上に現れる。

別の視点からいえば、舞台俳優が演じるのは、目の前の観客というひとまとまりの存在であるのに対して、映画俳優が演じるのは、カメラ等の機械装置に対してである。編集過程を通じて作りあげられた映画作品を観るのは、別々の場所に散らばる映画館の観衆だ。ここでは、演じる側だけではなく、観る側も分割されている。

ベンヤミンは技術の進歩による機械の介入とそれによる人間的現実の分割と編集というプロセスの中に、悲劇とともに新たな可能性を見出そうとする。しかし、そういう射程の大きな話はともかくとして、映画と舞台とのちがいについての発見とねちっこい考察こそが面白い。