大井川通信

大井川あたりの事ども

『歴史探索の手法』 福田アジオ 2006

いかにも面白そうな本だと思って、出版当時買って少しだけ読んでいた本。ちくま新書の一冊だからすぐに読めそうなものだが、積読癖が災いして16年経ってようやく通読した。期待通りの面白さだった。

著者がたまたま見つけて気になった「岩船地蔵」(舟形の石の台座の上に据えられている)について、30年に渡って息長く調査を続けた記録である。この地蔵は、はじめ東京多摩地区や、神奈川県など一部の地域に見つかり、建立は享保4年(1719)に集中している。

文字資料にもあたりながら、当時の流行神仏としての岩船地蔵の実態を明らかにしていくプロセスはスリリングだ。下野国(栃木県)の岩船山を発祥の地として、村送りの行事によって広がっていったと考えられる。地蔵を迎えた村では、短期間派手に着飾って村人こぞって念仏踊りで練り歩き周辺の村を訪ねる。地蔵を送り出したあとは、記念に岩船地蔵の石仏を建立する。

栃木から群馬を経て山梨もしくは新潟へと伝播したコースでは、地蔵は台座の船の上に横を向いて立っており、栃木から埼玉、東京、神奈川、静岡と南下したコースの地蔵は、船の舳先の方を向いて立っているという著者の発見は面白い。

ところで、現在伝えられている岩船地蔵の伝承は、水難や海難の奇跡話だったり、豊作をもたらす神だったりする。岩船地蔵の村送りの歴史は忘れられ、新たな説明が付け加えられたのだ。これを受けて、著者はこんなふうに結論づける。

今まで、文字資料による歴史研究の成果と民俗事象に依拠する民俗学の成果は最終的には一致すると考えてきたが、それは間違いだった。二つの学問は統合されるのではなく、異なる歴史的世界を明らかにするのである。二つの方法で同じ答えがでるのではなく、二つの方法で出された答えを接続することで、大きな歴史が現れ出るのである、と。

僕の地元でのささやかな「調査研究」にもあてはまる指摘のようだ。