大井川通信

大井川あたりの事ども

詩集『動詞』から(続き)

高橋睦郎(1937~)の動詞の連作は、たぶん学生の頃、その一部が雑誌のバックナンバーに掲載されているのを見て知ったのだと思う。後に現代詩文庫のなかに、詩集の一部が収録されているのを見つけて、読み返した。

昨日は、哲学的な問いの結晶みたいな作品を引用したが、作品にはもっといろいろなバリエーションがある。

自分自身の手足で組まれた梯子(はしご)にすがりつく人間。鍵穴をのぞく人間の瞳孔が、のぞきたい気持ちのために、鍵穴の形に変形しているということ。

直感でわかってしまうような、肉感的なイメージだ。哲学的な問いのクリアーな映像化とともに、こんな不可解なイメージをつかみ取ってしまうところに詩人の本領はあるのだろう。

 

のぼるの梯子は人の手足で組まれている。(「のぼる」)

 

覗くとき、いな、覗きたいと思ったその瞬間、すでに私の瞳孔は鍵穴の形に開いている。(「覗く」)

 

覗くとは、覗くに先立って覗き孔を穿つことであり、覗き孔のむこうの風景(たとえば、強姦者としての父親を殺害する少女の風景なら、少女とその父親さえ)をしつらえることである。(「覗く」)

 

出会うすれちがうのひずみ、または特殊な変型である。(「出会う」)

※なお、詩集の原文では、ゴチック体ではなく傍点による強調となっている。最後に引用した詩の、哲学的な直感の鮮烈さを見よ。