うつくしきみ寺なり/み寺にさくられうらんたれば/うぐひすしたたり/さくら樹にすずめら交(さか)り/かんかんと鐘鳴りてすずろなり/かんかんと鐘なりてさかんなれば/をとめらひそやかに/ちちははのなすことをして遊ぶなり/門もくれなゐ炎炎と/うつくしき春のみ寺なり
室生犀星詩集を読書会で読む。岩波文庫は以前から持っていて、犀星(1889-1962)なら、とんでもない詩に一篇くらい出会えるのではないかと期待していたが、そういうわけにもいかなかった。今の自分からみて、内容的にもかなり凡庸だし、言葉の連なりとしても特別な魅力や緊張感を感じられないものが並んでいる印象だった。
その中で、少数の有名でかつて読んだことのある詩が、どうしても秀でて見えてしまう。この詩もそう。ただ特別によく思われるのは、三好達治の「いしのうへ」のイメージを重ねて読んでしまうからだ。
達治の詩が、この詩の影響を受けているのはまちがいないだろう。言葉のやわらかな重なり。はなやかな春のイメージ。ゆったりとしたリズム。けれど、一本筋の通った緊張感と厳密で繊細な抒情において、「いしのうへ」には遠く及ばない気がする。