大井川通信

大井川あたりの事ども

『新版 フジタよ眠れ』 菊畑茂久馬 2021

読書会の課題図書。会の中では、僕は、著者の批評的な骨格が当時の日本の批評の成果を受け継ぐものであることと、著者の反国家主義イデオロギーではなく九州での土着の生活に基づく体質的なものであること、等の発言をしたが、やや消化不良の感じだった。今振り返ると、会の議論では出てこなかった以下の論点が、僕には面白かったと思い当たる。

美術界の「戦争記録画」に関する右往左往に対する批判が本書の大きなモチーフになっている。この経緯を読みながら、敗戦をめぐる多くの日本人のメンタリティーについてあらためてなるほどと思えることがあった。

まず、戦争遂行から平和の建設へと価値観の大きな逆転がある。この時点では、いち早く新しい旗に飛びつき、新たな時流に飛び乗って、声高に新しい価値を叫ぶことが大切だ。戦争中の振舞いは、多かれ少なかれ誰でも身に覚えのあることだから、ここではそこまで問題とならない。「一億総ざんげ」が正義なのであり、反省しているならば、過去の行状をむしろ「水にながす」べきなのだ。

利口な人は反省したらいいが自分は馬鹿だから反省しないという趣旨の小林秀雄の有名な皮肉は、当時の軽薄な風潮に対する皮肉としてならよくわかる気がする。

しかし、こうなると、価値観が逆転したにも関わらず、文学界やら美術界やら学会やらそれぞれの業界で、結局のところ秩序と権威は維持されたままで人間の交代は起きないことになる。と同時に、当時の権威たちの戦前の時流に迎合した作品や言動は、都合が悪いものをして封印され抹殺されることになる。

この茶番劇を、後続世代は見過ごすことができない。特に戦前の価値観のもとに成長し、戦後の逆転を深刻な精神の危機として経験した「戦中派」や、戦後の価値観をダイレクトに吸収した「焼跡派」にとっては。

戦後しばらくして彼らが発言権を持つようになると、年長世代の個々の「戦争責任」についての糾弾が始まるのはこのためだろう。吉本隆明(1924-2012)は、詩人たちの戦争責任をとりあげて論壇に登場したし、僕の個人的な知り合いで言えば教育学者長浜功(1941-)による教育学者の戦争責任の追及があった。これらとともに「転向」の研究がブームになったのも同じ理由からだろう。

1970年代に書かれた本書の戦争画をめぐる論考も、この文脈で理解することができる。一億総ざんげによる手のひら返しの隠ぺいに対する、時間差をもった新世代による本格的な批評の登場という意味合いにおいて、だ。