大井川通信

大井川あたりの事ども

小劇場で芝居を観る

コロナ禍のせいで、しばらく芝居を観ていなかった。

来月に、知人の主宰する企画で、ダンスを読むというイベントに参加することになった。複数のダンサーによるコンテンポラリーダンスのパフォーマンスに対して言葉による解釈で介入していくという試みになるらしい。

ちょうど自分のこれからの生き方で、身体というものを軸にしたいと考えていたところだったので、よい刺激になるとおもった。ただし、それまでに自分の貧しい身体的な教養をおさらいしておかないと、とても太刀打ちできないだろう。

そもそも他人の身体への直面になれる必要がある。それで、比較的若い劇団(結成10年という)の芝居をお金をはらってみたのだが、観劇中、アンケート用紙が悪口のオンパレードになるくらいのひどい作品だった。

芝居をつくり成立させることの苦労を多少は知っているので、そんな非情なアンケートは渡さずに劇場をあとにした。こんなブログでも実名をあげて劇評を書くのも忍びない。かといって、自分が感じたもやもやをこのままにしておくわけにもいかない。以下、思いつくままに毒を吐くことにしよう。

劇場に入ると、何もない舞台の真ん中に「平台」を何個も並べているスタッフがいる。舞台装置といえばこの平台とフェンスの一部みたいなものだけで、結局芝居中はこの上が公園ということになり、最後には役者たちがこの「平台」を片付ける。

この意味がまったくわからない。別にこの平台がなくても、この場を公園に見せることはできるし、芝居中この平台には公園以外の意味は何も付与されない。それほど無意味な平台を、公演の前後で意味ありげに組み立てたり、バラしたりされても。

あるいは、舞台の右奥の暗がりには音響や照明のスタッフみたいな人がテーブルについているのだが、ほとんど存在感がない。舞台の両脇には、椅子が並び、出番のない役者はそこに座っていたり、近くのハンガーラックから衣裳をとったりしている。

また、舞台の壁面に芝居のト書きの一部が映されて、それを読み上げるナレーションに従って、役者がぎこちなく身体を動かしたりする。ナレーションの声色による効果音もあったりする。

これらはすべて、どこか新しい演劇風であり、作り手の側は何かの効果を狙っているのかもしれないが、まるで面白くない。こうした手法は、芝居が超越的な物語の世界へと還元されてしまうことに対抗して、現に目の前にある事態に視線を引きもどすための手段としてあるときに効果を示す。

下手なコントのような魅力の無い舞台は、そこに虚構の世界を立ち上げていない。できそこないの芝居もどきにすぎないのだ。にもかかわらず、これは実際は芝居なんですという種明かしをくどいほどされても、そんなことは見ればわかるとシラケるばかりだ。

登場人物たちは、見え透いた勘違いをくりかえし、普通なら勘違いに気づくようなところでも、芝居を成立させるためだけに、その場にい続けて、無意味な言葉を並べ続ける。肝心のストーリーの方も、旦那の浮気相手を調査している人妻が、旦那の交際相手の「男」を刺したり、薬の売人と薬中と探偵のからんだりなど、何のリアリティも感じさせないドタバタである。

気の毒なのは、役者たちで、ト書きによるコントロール(芝居であることの強調)という制約から、どうしても棒読みと棒立ちの演技にならざるをえず、おそらく力量以下の舞台を余儀なくされているのだろう。