大井川通信

大井川あたりの事ども

押す/押さない

定年後は仕事をしないという同年齢の知人にその理由を聞くと、「押し活」に専念したいからということだった。ロックバンド「エレファントカシマシ」のファンで、全国のライブにも参加しているという。

もうだいぶ前に、アイドル界隈で、推しメンという言葉を使うことを知って、うまいことをいうなと感心したことがある。推しメンとは、グループの中で特に応援する(押す)メンバーということ。グループ全体のファンなら「箱推し」になる。

もともと「一押し」という言葉があるくらいだから、推薦したり応援したりする意味で「押す」を使うのは従来からの用法で、特別奇異ではない。しかも、ある程度重量のあるものを力をこめて「押す」という語感と、アイドルやアーティストに対して時間やお金をかけて応援するという体感とはちょうど釣り合っている。だから、この言葉は、一部のオタクたちをこえて広まってきたのだろう。今では、すっかり市民権を得た感じがする。

メディアを通じて「押せる」対象があふれているという現象もあるだろうし、それが商売のタネになるから、様々な「押す」ための活動が用意されてきているというのもあるだろう。「押し」への愛を個人的に発信したり、仲間と語り合う機会や手段も豊富にある。経済的に余裕さえあれば、先ほどの知人のように、押し活が忙しくて仕事をしている暇がないということも十分成り立つのだ。

自分以外の誰かに対して憧れたり、好きになったり、心を傾けたりすることを「押す」というならば、人間は本質的に「押す」存在といえるだろう。「押す」以上、身近な人間を対象にすると、それは圧力や圧迫を生む。

かつてはそれが当たり前だったのだけれども、個人の自由意志やプライバシーが尊重される社会では、他者を一方的に「押す」行為は忌避されるようになる。度が過ぎればストーカー扱いされることになるだろう。メディアを通じた「押し活」がさかんになるのには、そんな背景もある。

もっとも「押し活」にも節度が要求される。アイドルを本当の恋人と思いこむような「ガチ恋」は未熟な振舞いとして軽蔑されるようだ。