大井川通信

大井川あたりの事ども

海を知らぬ少女の前に麦藁帽のわれは両手をひろげていたり

少し前に、寺山修司の歌集を読んだときに、このわかりやすい内容の歌は印象に残ったが、特別にいい歌だとは思わなかった。というより、何をうたっているのかわからなかった。

文春新書の『新・百人一首』(2013)を読んで、この歌の意外な解釈を知ることができた。選者の一人永田和弘によると、「海はこんなに大きいんだよ」と手を広げて教えているという解釈と、「海なんか知らなくてもいいんだよ」と通せんぼをしているという解釈があるという。永田自身は、後者だと思っていたから、前者の解釈を知ったときには驚いたという。

僕はというと、なぜ両手を広げているのかに思い及ばなかった。たまたまそうしているのだろうが、それがどうしたという感じ。もしかしたら、少女に対して両手を広げるということで、迎え入れる、抱きしめる、というニュアンスで理解していたのかもしれない。すると、海を知らない不憫な少女に対して愛情表現している、というだけの意味になる。それではこの歌はつまらない。

永田が、二つの解釈を紹介したのは、同じ身体動作が、主人公の海に対する態度として肯定・否定の真逆に解釈されるという振幅の大きさに面白さを感じたためだろうと思う。

今はちょうど身体表現の解釈について思いをめぐらしているときだったから、自分の解釈力のなさを思い知るいい機会になった。お世話になった演出家多田淳之介さんの演劇に関する言葉が身に染みる。

「想像力によってつくられたものは、想像力によって受け止められる」

どのような作品でも、それは作者と鑑賞者との想像力を賭けた戦いの舞台なのだろう。