大井川通信

大井川あたりの事ども

大手拓次を読む

学生時代、熱心に詩を読んだり書いたりしていた頃、大手拓次(1887-1934)の存在が気になっていた。今回読み返してみても、詩作品そのものが印象に残っているわけではない。生前に詩集を持てずに不遇だったことや、ライオン歯磨きの会社員をしながら女性職員に熱烈な片思いをしていたことなどのエピソードに心ひかれていたのだと思う。

前橋で大手拓次展をみたタイミングで、ちょうど読書会で彼の岩波文庫の詩集を読むことになる。岩波文庫になった時は喜んで手に入れたが、きちんと読むことなく30年が経過してしまった。ようやく収録の全作品に目を通すことができた。

読書会では「むらがる手」と「法性のみち」を選んで朗読したが、とびぬけて良いと思える作品には出会えなかったのが正直なところだ。ただ、散文詩や一つの物事を様々に言い換えていくような長尺なタイプの詩に良いものがあった。

一つの独特なイメージを扱うだけの淡泊な作品よりも、言葉やイメージの奔流を自在に展開する形式の方が、彼の才能にはふさわしかったのではないか。そのなかでも散文詩の「噴水の上に眠るものの声」には、圧倒された。

この作品は、一つの言葉を選び詩を書く体験の深さ、広さ、微妙さの全てを、実に的確な比喩と言葉の配置と論理的な思考でもって、文庫本で7頁分に渡って展開した長大な散文詩である。これだけ長くとも、無駄な言葉やあいまいな比喩はなく、純粋たる詩作品として緩みなく構築されている。田村隆一の最良の作品に匹敵するような読後感があった。

その第一行。詩人のコトバは、モノの表層から最深層にまで貫通するのだ。

「ひとつの言葉を抱くといふことは、ものの頂を走りながら、ものの底をあゆみゆくことである」