大井川通信

大井川あたりの事ども

10年ぶりに東京デスロック『再生』を観る

東京デスロックの『再生』を10年ぶりに観た。10年前も、福岡公演と北九州合同公演と二つの舞台(その時は『再/生』)を体験したが、今回も劇団バージョンと北九州バージョンとの二本を観た。前回の北九州公演はデスロックに地元の役者が加わる形だったが、今回の北九州バージョンは全員地元の若い役者が演じている。

前回の『再生』の観劇体験が鮮烈だったので楽しみに劇場に入ったが、舞台装置に違和感をもった。畳敷きの真ん中に酒瓶が並べられており、その周囲に若者の汚部屋のようにオモチャや生活用品が並べられている。

実は前回の舞台についてほとんど記憶していないのだが、おそらく舞台には何も置いてなかったのだろうと思う。そこに並んだ役者たちが、次々にかかる音楽にあわせて踊り狂い、疲労困ばいしていく過程をそっくりそのまま3セット繰り返すことの中に、なんともいえないおかしみと感動があったと記憶する。普通の芝居とはまったく違う衝撃だったのだ。

だから、今回、いかにも芝居らしい所帯じみたセットに驚いたのだが、実際のところ前回受けたような衝撃を感じることはできなかった。

設定は仲間が集まった飲み会。昔話をしながら次々にかけられる音楽にあわせて踊りまくるという展開だが、初めに観た北九州バーションでは、リアルな若者の飲み会みたいで、3回繰り返すというコンセプトがまったく活きていなかった。

だって酔っ払いの飲み会は、そもそもどうでもいいことをああでもないこうでもないと繰り返し「くだをまく」ものだ。どんちゃん騒ぎで踊りまくるのも自分たちが楽しいからするのだろう。えんえん同じようなシーンが続いているみたいで、二回目のほとんどを寝てしまったと思う。三回目は早く終わらないかと思って観ていた。

ところが、デスロックバージョンはさすがだ。ワンセットの展開がきっちり魅力ある芝居として構築されていて、それが3回繰り返されることの不条理と面白さがきっちり伝わってきた。十分楽しい舞台を観た思いがしたのだが、やはり10年前の衝撃には及ばなかった。

『再生』には、かつてのあの抽象的な舞台がふさわしい。任意の曲によって、意味もなく無理やりに踊らざるをえないという受け身の感じと疲労が蓄積される役者の身体に向き合う緊張感は、酔っ払いの好き勝手な宴会という設定からは出てこないのだ。