大井川通信

大井川あたりの事ども

梅崎春生を『蜆(しじみ)』で偲ぶ

忌日を利用して故人を忍び作品に親しもうと思いついたのだが、うまくいっていない。先月からでも、6月7日の西田幾多郎、19日の太宰(桜桃忌)、28日林芙美子、7月9日鴎外、10日井伏鱒二と、なすすべもなくスルーしてしまった。

それで昨日の19日が、梅崎春生の忌日である。ここで、さすがにやり方を変えた。今までは、一冊を読み切らなければという義務感があったのだが、僕の現状の読書スピードと根気でそれが可能なわけがない。一冊読むのは、よほど思い入れのある書き手に限ればよい。

梅崎の場合は、ネットの青空文庫で短編を読むことにした。梅崎は療養で津屋崎にいたことがあるらしく、そんな話を安部さんとしたのも懐かしい。それで、安部さんもいいといった『蜆』と、手ごろそうな『記憶』を読む。

『蜆』は三回目になるが、読み返すたびにその良さがわかるようになってきた。梅崎の作品は、日常を題材にしていても、フィクションの気配が濃厚だ。偶然の度が過ぎるストーリはごつごつしているし、登場人物たちもくせが強く、見苦しく言い争ったりするから、読了後寒々とした気持ちにもさせられる。

電車内で語り手に外套を譲ってくれた男は、後日酔っぱらった語り手からその外套を奪い返す。その外套を売った金で、二人は飲みに行き、男が偶然とはいえ列車から人を突き落としてしまった話を語る。語り口はユーモアもあるが、重苦しく毒々しい。それでも、終戦後の人間の生活のむき出しのリアルが伝わってくるような気がする。

『記憶』は、タクシーの運転手との争いの話だが、語り手の高慢も鼻について、とても嫌な話だった。ただ、記憶の欠落や勘違いの部分だけは、妙に現実的だ。

こんなわけで、わりと簡単に追悼読書ができてしまった。自分の欠点や能力の衰えを補うために、やり方を工夫する大切さをあらためて痛感。