大井川通信

大井川あたりの事ども

僕の現代美術入門

今から15年前の玉乃井プロジェクトで、僕は初めて現代美術の作家とかかわりをもち彼ら彼女らの作品と向き合うようになった。そのとき気づいたり、学んだりした見方や方法で、その後も現代美術の作品について、時々は感想をメモしたりすることを続けている。

今回、コンテンポラリーダンスの公演を初めて観ることになって、今まで小劇場の演劇を観てきた視点が役に立つと漠然と考えた。実際それはそうだったのだが、何とか自分なりの読みを作ってみると、意外に現代美術(コンテンポラリーアート)の観方に近いことに気づいた。

玉乃井プロジェクトのあとに、現代美術作家原田俊宏さんの作品について長文の感想を書いてご本人を交えた会で報告した。その一部を引用してみる。自分でも思い出深い文章だ。

 

「現代美術を理解する上で、形式化という方法が重要であることを知ったのも、このプロジェクトを通じてだった。もっとも形式化は、人間によって手を加えられたあらゆる文化的事象(祭りや儀礼、制度や思考にいたるまで)に見られるものだけれども、それを自覚的に突き詰めるという点で、きわだっているように思えたのだ。

昨年(2007年)10月に六本木ヒルズで、比較的大きな現代美術展を見たのだが、その中に壁一面に一年間毎日描いた自画像のスケッチを並べるという作品があった。普通に考えて、一年間の日記帳というごくありふれたものの方が、その人自身の姿をはるかに内容豊かに示すはずだ。しかし、この作品は、具体的なエピソードを切り捨てることで、人間が日々「私」と向き合いつつ生きている事実の輪郭をくっきりと表しているようだった。

また、その反対側の壁面では、一週間分の新聞の一面を広告や写真にいたるまで克明に書き写した作品が並べてある。内容的には古新聞の情報に何一つ付け加えられていない。しかし、手書きの労力によって、そこにどれほど過剰な情報が詰め込まれているか、日常に情報がいかに氾濫しているかを気づかせてくれるように思えた。

こうした作品と向き合うときに感じる、何か圧倒的な力の正体は何だろうか。おそらく作者のエネルギーが内容の充実に向かわずに、空虚な形式の反復に費やされることで、そこに日常の意味が抜き取られた真空の磁場が生み出されるのだ。その磁場は、作品の前に立つ者をかすめて一挙に意味を回復する。観る者を圧倒するのは、激しく呼び込まれる意味が立てる強風なのかもしれない」