大井川通信

大井川あたりの事ども

芝居でいたたまれなくなる

せっかく舞台をみる勢いがついたところなので、今月も劇場にいく。評価の高い若手の演出家の芝居なので、純粋に楽しもうと思って、予備知識なしにリラックスして望んだ。ところが。

はじまってすぐのあたりは、いかにも新しい感覚の舞台だと興味をもつことができた。女子学生たちが主人公の芝居のようで、同じような白っぽい衣裳の女優たちが、舞台を規則的に駆け回りながら芝居をする。窓枠や壁の枠をもった役者たちも整然と動き回る。体育大学の集団行動みたいでもある。

当然、役柄の個性は薄くなるし、ぶつ切りの芝居になる。セリフも声を張り上げた無個性で情報を届けるだけのものになり、リアルな芝居というより言葉の掛け合いや大勢の唱和がリズミカルに響くが、これはこれで役者たちの規則的な連動性と調和している。

以前みた同じような手法の舞台では、こうした非日常的な舞台上で人間の一生みたいな非日常的で高速な時間進行を描いて面白かった。ところが、今回の舞台ではいっこうに場面が転換しないのだ。ようやく場面が変わったら、こんどは戦場での洞窟の場面になって、おどろおどろしい演出がえんえんと続く。負傷兵が自分の傷に蛆虫がわいていると叫ぶと、背後の映像は大量にうごめく芋虫のものになるといったような。

あとで知ったのだが、これは沖縄戦にかかわった女学生たちの運命を描いた漫画が原作になっていたのだ。戦争や戦場に関する今風な解釈が気になったのだが、これは原作に負っているのだろう。ただし、漫画なら登場人物の感情や関係性を繊細にえがくことができるし、それを見どころにすることができる。

ところがこの劇団の演出法では、舞台上のリアルな出来事の推移や人物同士のやり取りを描くことが不得手だ。その部分を担うのはセリフになるから、いきおい説明的で感情的な(くさい)言葉が、舞台上のやり取りとしてでなく、直接観客席に向かってビシビシと投げ込まれ続けることになる。

洞窟を抜け出した少女たちが、逃げ惑ったり、学校を回想したり、死に向き合ったりする場面が、これまた長々と続くシーンは、正直見ていられないものだった。よく言われるような「芝居がかった」古臭い演劇を観ているようだった。

戦争物の原作の舞台化と演出法とのミスマッチとしかいいようがない。日常の場面も非日常の場面もお構いなしに一定のトーンで女学生が唱和する「いっせいのせ!」が耳障りでしようがなかった。本来なら舞台の世界の独自のリズムを作るものなのだろうが、一方でそれを否定するセリフと演出が観客を直撃しているのだから。

・・・以上が僕のありのままの感想なのだが、ネットで調べると、この芝居はとても評価が高い舞台の再演で、観た人のコメントも絶賛の言葉があふれている。圧倒されたり、感動したりするのが大方の受け取り方のようで、途方にくれる。