大井川通信

大井川あたりの事ども

『坑夫』 夏目漱石 1908

この小説は、若いころに読んだ柄谷行人漱石論でも評価されていたし、自分の炭坑ブームもあったから、もっと早く読んでいてもよかった気がする。そうはならなかった理由が、今回読み通してよくわかった。

さほど長くはない小説だが、とにかく読み通すのに骨が折れるのだ。独特の書き方が特徴的でそれは面白いのだが、物語が遅々として進まない。だからストーリーに興味をもってその展開を追いかけるというわけにはいかない。

主人公が19歳の時に東京の実家を出奔し、たまたま出会ったポン引きに周旋された鉱山で短期間働いたという顛末が回想談として語られる。しかし小説になっているのは、ポン引きに連れられて同行者と鉱山までやってくるくだりと、鉱山での初日の様子及び二日目に坑内を見学で歩いたくだりとの、わずか数日間の出来事に限られる。出奔の経緯とか鉱山生活での見聞の深まりとかの題材はカットされているのだ。

石炭と金属との違いがあるとはいえ、炭鉱に興味があって実際に坑内見学をした自分には、坑内見学の事細かな記述はある程度関心をもって読めたけれども、一般の読者はどうだろうか。

最近改版された岩波文庫で読んだのだが、そこでの解説と手持ちの1980年代の新潮文庫での解説とのトーンの違いも考えさせられた。後者では、もっぱら漱石の実験的な書きぶりの新しさについて解説している。

人間は性格などというまとまったもので動いているんじゃない、生涯片付かない不安の中を歩いていんだ、と明言された人間観にもとづく緻密な記述は一貫していて、ちょっとくどいけれども斬新だ。

しかし、岩波文庫の解説では、主人公の炭鉱労働や炭鉱夫への差別意識が正面から取り上げられる。世間からはじき出された若い主人公にも、当時の社会の価値観はいやらしいほどしみついている。「人権意識」を備えた現代の読者として、僕にもその点は気になってしようがないところだ。

地底で偶然、話の通じる先輩と出会い、また実際に鉱山で働くことを受け入れたあとに、主人公が社会の差別意識から脱して、その虚構の序列の正体に気づく印象的なシーンが書き込まれている。こんなところに漱石の文学者としての非凡さが現れているのは間違いないし、岩波文庫の解説でも最大限の評価が与えられている。

ただ、最後の部分はいかにも付け足しみたいで、これを中心テーマとするには無理がある。小説の冒頭から描き続けられる主人公の心理の揺れの中に収まるような、あくまで内面の出来事にすぎない感じもする。

坑夫たちとの本当の出会いは、このあと5か月間続く日常の労働と暮らしの中にあったはずだが、それはわずか一行でスルーされてしまうのだ。