大井川通信

大井川あたりの事ども

思わず舞踏に触れる

知り合いから絵の展示と詩の朗読などの集まりに誘われた。読書会仲間が詩を読むから参加したのだが、音楽の演奏と舞踏のパフォーマンスもあって、マイブームの舞踏に予想外の場面で触れることができた。

アパートを改造したアトリエで、10人ばかりが坐ると、舞台となるスペースはわずかしかない。正面に大きな絵が貼られており、その前に小さな椅子が一脚。

左袖の引き戸を開けて、ダンサーがゆっくりと、という以上にかすかな動きでじわじわと舞台に現れる。身体をねじりながら、正面の絵画作品の前まで来て、椅子にまたがり、また帰っていくまでが30分弱。

この遅い動きが一貫して、この舞踏での身体文法となっているようだ。音響は三パターン。登場時は、妙に明るく浮かれたリズム。やがて様々なノイズにかわり、戻るときには別の落ち着いたい音楽がながれていたと思う。照明による白い壁面への影に対しても、あきらかにその効果をねらった身体の動きをしていた。突き出された一本の腕、手のひら、指の表現力が際立つ。

衣裳は、ボロを何重にもまとったようなあいまいな姿で、石をいくつもつなげた大振りの飾り物を下げている。低速で一定の動きの中で、偶然飾り物がガラリと音を立てるのが、アクセントになる。あいまいな衣装の無造作な表情も同じ効果だ。

だぶっとして分量のある衣裳には別の役割もあった。それをかかえ上げ、顔を埋め、抱きしめることで、他者の存在を暗示させるのだ。

舞台にあわわれたダンサーが絵画作品から何事をさずかり、それをかかえてもどっていくというストーリーを読み取ることができた。その体験の重みが、狭い舞台でのきわめて緩慢な動きとそれを支える過剰なエネルギー(ダンサーの手足は不随意に震える)によって伝わってくるのだ。

小さく明るいアトリエだから、演者と観客の両方を見渡せたのも面白かった。たしかに演者はわずか数メートルの移動に数十分をかけるという過酷な作業を行っているが、観客たちこそ、その間不動で一点を見つめるという苦役を強制されていて、演者との我慢比べの様相を呈している。わずかに手足を動かし、遠慮がちに身体を伸ばしたりしながら。