大井川通信

大井川あたりの事ども

能を少しだけ観る

職場のビルの一階ロビーで、能楽のミニ公演をするのにたまたま出くわした。演者は3名。三つの舞台のハイライト部分だけを、能面などつけずに演じて、最後の舞台だけ笛や鼓などの楽器が入った。実際の演者以外は「舞台」脇に控えて、独特の掛け声をかけて謡をうたう。

能楽の入門編ということもあって、それぞれの場面についてていねいな解説がある。しかし、その物語を演者の所作や舞台の様子に結び付けるのは難しい。

もともとの物語自体が、現代人にとって遠く興味の対象から離れてしまっている。当時にあっても相当抽象化されて象徴化された舞台だったはずだから、今の時代に、その抽象化や象徴化のからくりを解き明かすことは困難だ。

せいぜいできるのは、目の前に繰り広げられる身体動作や歌、音楽をそのものとして受け取りそれを楽しむということになる。その場合、いくら洗練されているとはいえ、能の身体動作は、やはり単調でバラエティに欠いているように思える。

先日、知人の主催する会で、コンテンポラリーダンスの公演を観たのだが、そのとき能に似ているという印象は間違いなかった。その公演は、物語性や象徴性との関係をたって、緻密なルールと修練に基づく身体動作の連なりだけを見せるものだったのだが、西洋由来のダンスをベースにした身体表現の自在さでは、能をはるかに凌駕しているといっていい。

若い能楽師が、解説でしきりに「想像力」が必要だといっていたのは、やはり物語と結びつけないと能を楽しむことはできないということだろう。しかしその想像力は、観客が自由に発動できるものではなく、さまざまな形式や知識に縛られたものだ。現代人が楽しむには、なかなか厳しいのではないか。

そんなことを考えられた有意義な30分だった。

 

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