大井川通信

大井川あたりの事ども

『郷愁の詩人 与謝蕪村』 萩原朔太郎 1936

岩波文庫の出版が1988年11月で、その翌月の12月26日に読了したとのメモ書きがある。父とこの本について話した記憶があるから、おそらく父も若い頃に読んで感銘を受けた本だったに違いない。朔太郎節全開の評論だから、朔太郎好きにはたまらないだろう。

蕪村の俳句の本質は、朔太郎によれば「時間の遠い彼岸に存在している、彼の魂の故郷に対する『郷愁』であり、昔々しきりに思う、子守唄の哀切な思慕」「宇宙のどこかに実在しているかもしれないところの、自分の心の故郷であり、見たこともないところの、久遠の恋人への思慕」ということになる。

朔太郎による蕪村俳句の評釈は、それ自身朔太郎の詩や散文詩の一節といっていいくらいの感情の高揚と表現の完成度とを持っている。

僕は、大学生の頃図書館で借りた水原秋櫻子の『蕪村』をその後買い直すくらい愛読していたつもりだったのだが、今回両書を読み直してみて、僕自身が朔太郎の読みの方に大きな影響を受けていたことに気づいた。

たとえば、「凧(いかのぼり)きのふの空の有りどころ」「月天心貧しき町をとおりけり」「葱買(こう)て枯木の中を帰りけり」は僕の中の蕪村ベストスリーと言えるけれども、この三つとも選んでそれぞれ絶賛しているのは朔太郎だが、秋櫻子の本ではそもそも選から漏れていたり評価が低かったりする。

ただ、葱の句で、朔太郎が、帰宅先の家庭の炉辺への思慕を解釈の中心に据えているのには驚いた。一方、秋櫻子はせいぜい、寒々とした枯れ木と葱の青や香りとの対比が面白いというくらいで二級品だと切って捨てる。俳句の解釈として秋櫻子の方がまっとうだろうが、作品の読みとしては朔太郎の方が格段に魅力がある。