大井川通信

大井川あたりの事ども

須恵村訪問記(その2 祈祷師の顔)

文化人類学者エンブリー夫妻の住居跡の石碑は、街道沿いのガソリンスタンドの脇にあった。覚井(かくい)の集落に入っていく小道の入り口で、小さいながら由来も刻まれていて好ましいものだった。

自宅の周辺を歩く、という大井川歩きの鉄則を応用し、ここを起点に歩くことにする。覚井の集落の当時の略図は『須恵村』の中に載っているし、現状の地図のコピーも用意してある。しかし、実際に歩く町の様子や質感は新鮮だ。

僕は事前に、覚井に住む「祈祷師」の存在を街歩きのポイントにしようと考えていた。大井川歩きの調査の中でも、祈祷師の存在が気になっていたからだ。地元ではかつて平井に「ザトウさん」がいて、琵琶をひいてお祈りをしていたという。

須恵村』の記述によると、当時、須恵村には3人の祈祷師がいて、村人たちは病気になったり困りごとがあると、医者にかかるのではなく、祈祷師に相談する。そのうちの2人が商店などの多い覚井、もう一人が隣接した上手(おあで)にいるのは、そこが人が集まるところからだろう。

住居跡から100メートルばかり道を下ると球磨川につきあたるが、川沿いに舟場稲荷神社の鳥居と小さなホコラがある。この神主が祈祷師を兼ねていたという。ホコラが立て直されたのはエンブリーの滞在中で、扉を開けてお参りすると、寄付者名の中にエンブリーの名前を見つけることができた。

球磨川に降りて、対岸の川瀬(かわぜ)をながめる。ここはかつて船着き場で、隣村の料理屋の派手な着物を着た芸者が月に二回稲荷にお参りにきたというが、荒れた土地にその面影はない。

住居跡から川の方に下らずに、覚井観音の角を曲がると、北獄(きただけ)神社の鳥居がある。鳥居の脇には稲荷神社の社があるのだが、これは本の記述のとおりだ。『須恵村』によれば、北獄神社を預かっていたのが祈祷師で、その養子が稲荷を祀っていたのだという。彼らはとても貧しくて、息子はふだん焼酎工場で配達員として働いていたと書いてある。

北獄神社の建物には人の気配はなかったが、ガラス越しに内部の祭壇の様子が見えたので、何気なく写真を撮っておく。

住居跡の並びの街道沿いでガタガタと重機の音が響いているので行ってみると、旧須恵村庁舎を壊しているところだった。町村合併は2003年だが、今でも玄関に「須恵村役場」の石の表示を残しているところに住民たちの村への思いを感じることができるが、庁舎解体は歴史に一区切りをつけるものだろう。

宿に入ってから、あらためて『須恵村』のページをめくっていると、ある発見があった。132頁の学校の運動会で着飾る若者を撮った写真に、正面を向いて笑顔を見せている男を「稲荷神社の祈祷師」と説明してあった。舟場稲荷の神主の方は家族持ちで子だくさんというから、この人物は北岳神社の養子で、稲荷神社を持っていたという若者であるのは間違いないだろう。

ふと北獄神社で撮った写真を確認してみると、社殿の内部の祭壇には、古くなったモノクロの人物写真が掲げられていたのだが、その老人の笑顔に明らかにエンブリーの撮影した若者の面影があったのだ。