大井川通信

大井川あたりの事ども

『月明学校』(三上慶子 1951)を読む

市立図書館で県内の他館の蔵書を取り寄せてもらって、昭和26年(1951年)出版の古く変色した本を読む。球磨盆地を旅行して、かつて白髪岳近くの山中にあった山の分校の記録を読んでみたいと思っていたのだ。

読んでよかった。当時は同年に出版された無着成恭の『やまびこ学校』とともに、南北の山の学校の記録として並び称せられたようだが、『やまびこ学校』が今でも岩波文庫で読めるのに対して、本書はほとんど忘れられている。教育書として見た場合、著者が専門の教員ではなく、また子どもたちの生の声(作文)の引用が少ないのもその理由だろう。

しかし、著者三上慶子(1928-)自身の10代からの6年間の山の生活における瑞々しい成長の記録として読むと、単なる教育実践の書という以上の内容と魅力をもっているように感じられる。

そもそも三上親娘が、終戦直後の球磨盆地に疎開して、その上不便な山の学校の教師を引き受けたのが不思議だったが、著者は「30年近い昔、トルイシアンの青年であった父が、徳富蘆花にすすめられて、山村に、新しい教育をするために入ったのがこの山であった」という理由を書いている。

武者小路実篤の有名な「新しき村」もお隣の宮崎県の山中に開村したのが、ほぼ同時期の1918年(大正7年)だから、当時の青年知識人に共通の背景による行動だったのかもしれない。作家三上秀吉(1893-1970)は、若い頃の自分が手掛けていったんは挫折した学校を引き受けたのだ。老朽化した私設の学校を建て替えて、新制の中学生を受け入れるために、村の本校の正式な分校にしようと奔走する。学校自体は500メートルの山中にあるが、村に降りるためには900メートルの峠を越えないといけない。読む前は東京からのお客様扱いなのかと想像していたが、父娘の苦労と志はそんなものではなかった。

複式学級で、父親は上級生を教え、娘は下級生を教える。山の子どもたちの多くは貧しく、親も教育に理解があるわけではない。終戦直後で教材も不足している。その中での教育は、工夫された本格的なものだった。

たとえば、日食があるときに、全校で観察会をする。時間の経過で太陽の欠ける様子と気温の記録をそれぞれが役割をもって行う。人吉への旅行を計画したり、鉱物採集や植物採集を行う。父娘の教養と見識は、専門教員にひけをとらないものだった。

現在はこの分校は廃止されている。山の学校が必要だったのは、山で生きる人たちがいたからだ。この点でも教えられることが多かった。山の人たちの仕事は、木を切って炭窯で炭を焼くことが中心だ。小集落もあるけれども、遠くの山間に一軒だけで住む家族もいる。周辺の木を伐りはらって炭にすると、仕事場を移動しないといけない。親方(資本)との契約に基づいて仕事をしており、山の仕事を選ぶ家族には、様々な事情があったようだ。学校を卒業する子どもたちの多くは、親を助けて炭焼きの仕事をすることになる。

「山の子供たちはみな、炭がまの話になると熱心に意見を持出すが、それらの言葉の中には、その仕事を身近に感じる子供らしいひびきがあった」「学校を巣立った子供たちの前には、すぐに荒々しい社会が待ち受けている。身体一つをもとでにしてその日稼ぎの生活をしなければならない。ただ、働く場所が、日光と、水と、空気と、自然の美に恵まれた所であるにしても、生活は、いつもぎりぎり一ぱいである。そんな子供たちを思う時、人生が若さにみちていた時の楽しい思い出として、学校生活はできるだけ、毎日を楽しいものにしてやりたいと思っている」

ずいぶん昔の出来事のように思えるが、著者は、僕の母親と一歳違いなだけで、まだ存命のようである。当時の子供たちも山を下りた人が大半だろうが、今でも元気に暮らしている人もあるだろう。その中には三上父娘の志ある実践がなければ、満足な学校教育を受ける機会を持たなかった人もいるはずだ。彼ら彼女らの中に、山の分校の思い出が懐かしく輝いていることを想像すると、あたたかい気持ちになる。