大井川通信

大井川あたりの事ども

『消された一家』 豊田正義 2005

副題は「北九州・連続監禁殺人事件」で、2009年の新潮文庫版で読む。

ドキュメントをまとめて読もうと思って、以前からの宿題だった本書を手にとったのだが、新年早々、憂鬱な読書になってしまった。

僕は、この監禁殺人事件の現場となったマンションと多少の縁があって、この事件を他人事でなく感じてきた。当時の報道やその後のドキュメンタリー番組などを見て、事件のあらましは知っていたが、あらためて一冊の分量で読むと、この事件の詳細がありありと迫ってくるようでたまらなかった。

小さなことだが、さらにやりきれない事実に気づいた。この事件の主犯である松永太と緒方純子は、1961年生であり、僕と同級生の年齢だということだ。東京と久留米と土地は離れているが、同じ時代の空気を吸ってきた人たちだった。

もう一つ、緒方純子の父親が松永に財産を奪われ、あのマンションに監禁されて殺害されたのが61歳の時であり、今の僕と同じ(ということは今の松永たちと同年齢)だということだ。

久留米で家屋敷を構え親戚に囲まれて、農協の役員をしていたという分別盛りの人物が、松永の口車と奇策に乗せられた結果、自分と妻(緒方純子の母親)と娘(緒方純子の妹)夫婦と孫二人の全員が監禁されて、家族同士で憎みあい殺しあうように仕向けられるのだ。

僕が得た教訓は二つだ。人間は平気でウソをつき、自分の利益のために人をだまし、傷つけ、残酷に支配し、拷問して殺し、それを楽しむことすらできる。本質的にそういう可能性をもった存在だということだ。(文庫本解説で、精神科医が松永を「サイコパス」という特別な化け物であるかのように断定しているのは誤解を招くと思う)

一方、人間は、たやすくウソにだまされ、暴力と恐怖によって理性や感情をなくし、社会のルールや道徳を見失い、命令のままに家族さえ傷つけて殺すことすらできる。そういう存在だ。(松永とのかかわりがなかったら、緒方家の5人の大人と2人の子どもは、どう考えても常識的で平凡な人生を送っていたとしか思えない)

僕も人間である以上、いつなんどきそのどちら側に足を踏み入れるかはわからないのだ。こういう自覚だけが、かろうじて最悪の結果を回避するための条件となるかもしれない。肝に銘じたい。

 

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