大井川通信

大井川あたりの事ども

目羅博士 vs.『幽霊たち』

『幽霊たち』は、ポール・オースター(1947-)の1986年の作品。

昨年末から、自分の読書を、評論、詩歌、絵本、日本文学、外国文学、ノンフィクションの6分野で意識的に回していこうと思いついた。もともとはほとんど評論専門だったが、この5年くらいの間に、読書会等の力を借りて、少しずつ自分が読む本のジャンルを増やしてきた。

ただこうなると、どうしてももともと苦手の外国文学が手薄になってしまう。何か読もうと思って書棚にある薄い文庫を手に取ってみた。いつこの本を買ったのかは覚えていない。

面白かった。文章も小気味いいし、ストーリーにも引き込まれた。主人公の思弁のくどさや物語の観念性が気になるものの、このあたりがこの作品の持ち味なのだろう。

読みすすめるとすぐに江戸川乱歩の『目羅博士』を思い出した。現代文学の人気作品にも張り合うことができるとは、さすが神出鬼没な目羅博士だ。

特異な犯罪者目羅博士と比較するためには、『幽霊たち』をブラックの犯罪として解釈することが必要だろう。ブラックはホワイトに変装して、ブラウンに自分自身を監視する仕事を依頼する。道をはさんで同じようなビルの一室を用意するあたり、道具立ては目羅博士と同様だ。

ブラウンはブラックを観察し続けるなかで、アイデンティティが揺らいで、自分がブラックと同一化してしまうような感覚を覚える。相手側に鏡のような状況を見せつけて、模倣欲望を喚起させるというのは同じでも、わずか数晩で犯罪を完成させようとする目羅博士に比べて、数年にわたるブラックの犯罪はずっと慎重で、リアリティがある。

ただその分、ブラックの犯罪はまだるっこしいし、ブラック自身見られることの快感に目覚めてしまうなど、犯罪者の動機が見えにくくなっている。しかし、クライマックスのシーンの意図は明確だ。

接触を禁ずることで、ブラックへの同一化の欲望をぎりぎりまで亢進させられたブラウンに対して銃を向ければ、ブラウンは同じような暴力をブラックに向けざるをえないだろう。ブラウンは、ブラックを亡き者にすることでようやく自分を取り戻し、この迷宮から抜け出すことになる。

ブラックの犯罪の眼目は、目羅博士のような単純な殺人とは違って、他者を殺人者に仕立て上げ、自分を抹消することにあったのだ。

 

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