大井川通信

大井川あたりの事ども

『遠い「山びこ」』 佐野眞一 1992

偶然だが、昨秋、著者の佐野眞一(1947-2022)の訃報に接している。「無着成恭と教え子たちの四十年」という副題が示すとおり、無着成恭の『山びこ学校』(1951)の周辺を辿るノンフィクションということで、2005年の新潮文庫版の古書を取り寄せた。

昨年末から読書の柱としてドキュメントを取り入れて読み進めているが、今回ほどドキュメントのもつ力を感じだことはなかった。『山びこ学校』はすぐれた作品だが、これだけを読むのと、このドキュメントを合わせて読むのとでは、その理解の深さがまったく異なってくる。この本が書かれてからさらに30年が経ち、『山びこ学校』の世界が一層遠くなっている今となっては、なおさらだ。

無着は巻末に教え子43名全員のプロフィールを短く書いているが、佐野はその全員のその後を調べ、存命者には会いにいっている。この学級全員の作品を載せるという、いかにも戦後民主主義的な編集も出版社側からの要請だったという。

『山びこ学校』では、子どもの作文を通じてしか知ることのできない無着成恭の教育の来歴を徹底的に明らかにしている。出版の10年後に、もっとも忠実な教え子だった佐藤藤三郎との間に論争があり、生活記録ばかりで普通の学力をつける教育が抜けていたことを激しく批判されたというエピソードは興味深い。後年無著も、従来の経験主義の立場から、独自の科学重視の教育へと方向転換したようだが、かつてのような評価を得ることはできなかった。

話は変わるが、現実と可能世界との違いについて、現実には「細部」があるが可能世界にはそれがないという哲学の議論が印象に残っている。これは現実とフィクションとの違いに置き換えてもいいだろう。

無着成恭という教師が誕生し『山びこ学校』という文集が編まれるにあたっては、戦中戦後の様々な出来事や人々とのかかわりが存在するし、『山びこ学校』がベストセラーとなり映画化されたのちには、無着と教え子たちはいっそう大きな関係に組み入れられて翻弄されることになる。このドキュメントは、そんな「細部」を可能な限りすくい上げているという印象がある。有名人の意外なエピソードもあれば、庶民の生活の小さな出来事への目配りもある。

このため戦中戦後の社会史や文化史の書物として読むことができるが、何より戦後の教育のありようを正面から追った記録として貴重だと思う。執筆当時の教育の現状を「荒廃」の一言で片づけているのはずさんすぎるが、無着が明星学園を退職する1983年頃までの教育の流れを知ることができる。

のちに『滝山コミューン一九七四』で政治学者の原武史が、自分史とからめて1970年代の教育の一潮流を描いて評判を取ったが、本書と比べるとのその視野はずいぶん狭いものだったように思える。