大井川通信

大井川あたりの事ども

『カキワリの劇場』 小林賢太郎 2023

一昔前、ツタヤ図書館と揶揄された新しい公共図書館のあり方が話題になった。その走りは武雄市立図書館で、どちらかと言えば図書館関係者からの批判の声が大きかったと思う。僕も旅行の途中で立ち寄ってみたが、図書館としては確かに目新しい空間だと思ったが、ごちゃごちゃしていて特別に魅力的だとは思わなかった。

ところで、一昨年、我が街のショッピングモールの一角に、カフェ併設型のツタヤができてみると、じつにこれが気持ちのいい空間なのだ。普通のカフェなら席を離れて出歩くことは想定されていない。しかし書店の本を見るための離席が前提になっているため、結果的にモールのフロアーとの行き来も自由になっている。トイレはもちろん、必要になった文房具を買いにいくこともできる。(こうした利用は好ましくはないのかもしれないが、施設管理上許容範囲ではあるだろう)

とても開放的で、居心地のいい場所なのだ。図書館機能などここに必要ない。書店とカフェとモールの組み合わせで十分だ。しかし、紙の本離れのために書店が苦戦する中、せっかくのこの場所もいつまで続くかはわからない。

その応援のためというか、よい環境の提供への恩返しというか、試し読みをした絵本で良かったものは、その場で購入するようにしている。『カキワリの劇場』は、カフェで読んで欲しくなった新刊の絵本だ。

地味でおとなしい感じの絵も気に入ったが、劇作家の作品らしい、演劇をモチーフにしたシュールなストーリーがとてもよかった。絵とストーリーとのバランスが悪いと絵本は好きになれない。

自分のことが嫌いで、自分を変えてみたいという地味な若者が、劇場らしき場所に紛れ込む。観客はだれもおらず、舞台の上で演じる役者もいなくて、ただ舞台装置のカキワリが並べ替えれるだけの芝居だ。6つの場面では、それぞれ自分を変わりたいと思った存在(すべてカキワリ)がグロテスクに自分を失ってしまうことが描かれており、若者は自分の考えが間違えだったことに気づいて、その劇場を逃げ出す。

しかし、自宅に戻ったはずの若者は、舞台の上で再現された自室のカキワリの一部になってしまう。若者の日常は、カキワリの劇場での芝居の7つ目の場面だったのだ。この時はじめて劇場が満席となって、観客たちが若者の日常を見物していることが示される。

ややわかりにくいところも残るストーリーだが、自分を変えたい、この退屈な世界を超えたい、と考えている主人公(これは僕たち一人一人でもある)が、実はそういうゲームを演じている芝居の舞台装置(カキワリ)にすぎなかったというオチは衝撃的だ。僕たちは自分の人生の主人公ではなく、単にどこかの世界の観客のためにそういう役を演じているにすぎないのだ。

こういう発想は、とりわけ演劇人にとってなじみのあるものだろう。舞台とは、もともとそういうものだからだ。ところがこの複雑な舞台のカラクリを、特別なルール説明なしに誰もが簡単に了解して、芝居を楽しむことができる。僕は、この事実の中に世界の成り立ちについての真理が隠されているような気がするのだが、どうだろうか。