大井川通信

大井川あたりの事ども

自分の思考のクセを知る

僕は、ふだんの生活の中で、なんともバランスを欠いたこだわりにとらわれることがある。子どもの生活習慣や家の管理などのことで、突然あるポイントが心配になり、性急にそのことの改善を言いつのったりする。

そのポイントはまったくの思い違いでもないし、それなりの根拠もある。しかし冷静になって振り返ると、たくさんある問題点のなかでなぜそのポイントなのか、それを問題にするタイミングがなぜ今なのか、その言い方はどうなのか、という疑問の余地はおおいにあるのだ。そのこだわりは、客観的にはかなり恣意的でバランスを欠いていることになるだろう。

家の外でも同じだ。たとえば、こんなことが気になる。

スーパーの駐車場でカートを戻さずに車の脇に置きっぱなしになっていることがある。狭い駐車スペースの利用の際に誤って車に傷をつける人がでるかもしれない。そう考えると、カートを放置する人の自分勝手さが許せなくなる。

今日、たまたま、カートを放置して車を出そうとする老夫婦が近くにいた(しかも駐車に邪魔になる位置にあからさまに置いていた)ので、迷惑ですから戻してくださいと面と向かってきつく注意してしまった。

その時は、正義感が高揚して良いことをしたと思ったが、買い物を終えて、車に戻るときに自分のカートを倒して、思い切って購入した高級卵の一ダースの半分を割ってしまったから、どこかで動揺や後ろめたさがあったのだろう。バチが当たったのかもしれない。

ただここまでは、自分の平常運転だから目新しいことはない。発見があったのは、そのつぎだ。

僕は、読書会などで本を読むときと、他の参加者と読みが合わないことが多い。どう考えてもこう読むべきだろう、という読みの方向に全く賛同が得られない場合もあるし、際立った長所や欠点があると確信がある場合も、その点がスルーされることがある。議論して他者と考えが合わないことが多かったのだ。

なんとも腑に落ちないと思いつつ、本を読んだり考えたりすることは自分の数少ない得意分野だから、これは自分の(特別な)優位性を示すものではないかとうぬぼれてもいた。現にうぬぼれたい自分がいる。

ただ、日常生活における自分のバランスを欠いた特異なこだわりから推測してみると、読書や思考におけるこだわりだけが、高度なバランスを保って常に当を得ているとは考えにくい。客観的にみれば、カートの戻しをさぼった老夫婦にがみがみ文句を言っている程度のレベルなのではないか。

悲しい話だが、自戒しよう。