大井川通信

大井川あたりの事ども

『体はゆく』 伊藤亜紗 2019

読書会の課題図書。最先端のテクノロジーを特集した雑誌の連載記事を読むように、興味をもってスラスラと読むことができた。

ただ、著者や対話者の目覚ましい才能と紹介されるテクノロジーの目新しさにもかかわらず、著者が言うようには、「できる」ことの面白さを堪能するまではいかなかった。

その理由を二つ、辛口になるけれども上げてみよう。一つには、著者が提示する「できる」の説明枠組みが、ごく当たり前のものであるために、どんなに最新のテクノロジーの成果を示されても、特別な驚きを与えられないのだ。

何かが「できる」とき、意識がそれをすべてコントロールしているわけではない。身体には主体性や柔軟性、冗長性があって、身体の先行のもとに「できる」を獲得している、と著者は問題を立てる。

しかし、これは当たり前であり、誰にとっても自明の事実である。著者自身、エピローグで、「体という謎めいた物体を前に試行錯誤する人の営みは、専門家としての科学者がやっていることとほとんど変わりません。いや、切実さの度合いでいえば、専門家としての科学者よりも上でしょう」と書いているくらいだから。

「できる」ために、僕たちは自分の身体に対して(身体とともに)様々な支援や介入を工夫している。それを、テクノロジーを用いて、もっと効果的に効率的に目覚ましくやってみましょう、というだけの話なのだ。

もう一つは、「できる」ことや「わかる」ことを目指す科学の、総じてのつまらなさである。僕は教育に関わる仕事を長く続けていたが、そのなかで、学習に関する科学から刺激を受けたことはほとんどなかった。

学びの豊饒さは、テクノロジーによってはじめて開かれるようなものではない。肝心なのは、個々の「できる」の先にある事態だ。獲得した学びの諸成果を使って、それらを結びつけ、さらに広げていくプロセスのうちにこそ豊かさはある。「できる」を最終目的にした思考や技術からは、閉塞感を受けるばかりなのだ。