この時期になると、郊外には菜の花が目立つ。近所の古墳公園を通りかかると、一面の菜の花がきれいだ。まばゆい黄色が浮き上がって、現実離れした美しさだ。いちめんのなのはな・・・ このフレーズを繰り返す有名な詩があったと思うが、山村暮鳥だろうか。
菜の花を見ると、妻はきまって、長男を生んだ時を思い出すという。長男の誕生日は3月14日で、そのころ菜の花が咲き乱れていたのが印象に残っているそうだ。
次男が張り合って、自分が生まれたときの思い出の花は何かと聞くけれども、2月25日生まれの次男には、残念ながら特に花の記憶はないという。春を待つ花が一斉に芽吹く前の時期だからかもしれない。
伊東静雄(1906-1953)は、僕がとくに学生時代に好きだった詩人。ごく少数の高踏的な詩を彫琢して残したという生き方にも憧れをもっていた。ただ、ぎこちなく狙いのわかりにくい詩もあり、どこがいいのかを説明しづらいとも感じてきた。
今日は、彼の忌日(菜の花忌)なので、詩集を取り出して、晩年の詩集「反響」あたりの詩を読んでみる。ひどく平明で散文みたいにたんたんとした詩が並んでいて、以前はそれほどひかれなかった。今読むと、何とも言えない味わいがある。
以下は、その一つ。詩人の疎開生活での情景を、僕も身近に感じるような経験を積んだためだろうか。
わが窓にとどく夕映は/村の十字路のそのほとりの/小さい石の祠(ほこら)の上に一際かがやく/そしてこのひとときを其処にむれる/幼い者らと/白いどくだみの花が/明るいひかりの中にある/首のとれたあの石像と殆ど同じ背丈の子らの群/けふもかれらの或る者は/地蔵の足許に野の花をならべ/或る者は形ばかりに刻まれたその肩や手を/つついたり擦(こす)ったりして遊んでゐるのだ/めいめいの家族の目から放たれて/あそこに行はれる日日のかはいい祝祭/そしてわたしもまた/夕毎(ゆふごと)にやつと活計(くわつけい)からのがれて/この窓べに文字をつづる/ねがはくはこのわが行ひも/あゝせめてはあのやうな小さい祝祭であれよ/仮令それが痛みからのものであつても/また悔いと実りのない憧れからの/たつたひとりのものであつたにしても
(伊東静雄「夕映」)