大井川通信

大井川あたりの事ども

『蟹工船』 小林多喜二 1929

葉山嘉樹(1894-1945)の小説を読んだことをきっかけにして、プロレタリア文学つながりで、小林多喜二(1903-1933)の手元にあった文庫本を読んでみる。代表作『蟹工船』と死の前年に書いた『党生活者』が収録されている。

内容以前に小説としてしっかり作られていることに驚いた。文章も描写も鮮やかで、展開にも無駄がない。葉山芳樹のちょっと不思議な幅広い作風と比べると、リアリズムの本格派という印象だ。

過酷な労働現場を徹底して見据えながら、視野の広い立体的な社会認識を結び付けて、絶望の中の希望の物語を造形する手腕は見事というほかない。『蟹工船』での集団の描き方や、その中での個々人の意識や行動の変遷は、図式的という批判もあったようだが、十分自然で説得力をもっているように思えた。

『党生活者』での、地下活動家たちの姿と活動のリアリティも圧倒的だ。このような作品を公表することは、労働運動への支援となると同時に、体制側への情報提供にもなってしまうというジレンマがあったのではないだろうか。

プロレタリア文学の文脈の中では、個人的生活を排斥し党生活を徹底していく主人公の姿を、高度な達成として見たり、その達成の中の限界を見たりしているようだ。たとえば、共産主義的人間の典型として評価したり、同志の女性を利用した上で蔑ろにするあたりをその限界と評したりする。

が、もっと一般的に、理念とそれに基づく運動に憑かれた人間の像として一般化できるような気がする。それはあえて言えば善でも悪でもなく、人間が取りうべき態度の一つの典型だろう。

主人公は「これから何年目かに来る新しい世の中にならない限り(私たちはそのために闘っているのだが)」という。彼らの献身的な行動の源泉は、やはり目の前の希望(間近に迫った革命)だったのだ。

読み手の側は、この先に希望などはなく、作者自身が翌年虐殺されるという運命も、日本社会が最悪の戦争に突き進むという運命も知っている。100年経とうとしている今も「革命」が起こってはいないという、彼らが信じる理念の欠陥についても。