大井川通信

大井川あたりの事ども

その自己欺瞞が許せない ー『滝山コミューン1974』再論ー 2010.12.18作成

3年ばかり前、読書会で政治学者の原武史が書いたノンフィクション『滝山コミューン1974』のレポートを担当した。

当日はドイツ人の参加者もいて、にぎやかで満足のいく会となった。報告への評価も「全然ダメだ」という人から「こんなレポートは初めて聞いた」と言ってくれる人までいて、いつもながら議論はカオスのような展開となった。

この本の舞台になるのは、昭和30年代に建設された東京郊外の滝山団地である。そこで原少年は、地元の小学校の新任教員の熱心な指導に巻き込まれていく。当時教育現場で盛んだった集団主義的な教育思想に従って、徹底した班別、クラス別による集団作りが行われた。こうした教育は、滝山団地のPTAにも支持されて、閉ざされた団地を舞台に一個のコミューン(地域共同体)が成立していたのだと原さんはいう。

原少年は学校の中で孤立してしまい、そこから脱出するように他地域の私立中学に進学し、一家は滝山団地を後にする。しかし、時間が経つにしたがって彼の中で滝山団地での経験がトラウマのように膨れ上がり、40代となった原さんが当時の担任や級友にインタビューをするなどの調査をおこなって書かれたのがこの本である。

発表当時話題となりいくつかの書評もでたが、好意的なものばかりだった気がする。ネット上の一般読者の感想もほとんどが著者の主張を肯定するものだった。最近でも、朝日新聞で今世紀最初の10年の名著といった企画の一冊として取り上げられている。

誰も彼もが、当時の集団主義的な教育の「異様さ」に目を向け、自分の体験と重ね合わせながら、それを見事にえぐりだした労作としてこの本を評価する。しかし、僕にはとてもそんなふうには読めなかった。むしろこの本を書いた著者の精神の「異様さ」の方が気にかかっていた。

 

僕は原さんと同世代で、滝山団地がある東京郊外多摩地区で生まれ育った。僕が住んでいたのは新興住宅街だったが、歩いて5,6分のところには、富士見台団地という大きな団地があってよく遊びにいった。数年前マンガの『20世紀少年』が映画化されて話題になったが、作者の浦沢直樹さんも同じ頃、隣町で育っている。彼が描く主人公たちの小学校生活の情景が僕の思い出に近い。

僕の学校も、滝山第七小学校ほど徹底したものではなかったが、それなりに「進歩的」で集団主義的な教育は行われていたと思う。しかしそれは僕には特別なトラウマにはならなかった。原さんの級友たちの多くは、彼がこだわり続けた滝山七小での出来事をほとんど忘れていたそうだが、僕も小学校での行事や先生の指導のことをたいして覚えてはいない。幼かった僕らは、ただ先生の指導に素直に、というか単に機械的に従っていただけだったのだろう。

ところで、僕の小学校にも、優秀な私立中学校を受験して地元の公立中学校には通わない子どもがクラスに一人ぐらいはいた。僕のクラスのA君は学校一の秀才で、中高一貫の私立の進学校から東大の法学部に現役で進学している。いつだったか、僕が学校の宿題なんてすぐに終わってしまうと話した時には、「勉強というものはやろうと思えばいくらでもやることは見つかるよ」と諭されたことがあった。学級委員に選ばれたものの統率力がなくて立ち往生した時には、彼から「リコールしようか」と意地悪く言われたこともある。たぶんそのとき僕は初めてリコールという言葉を知った。

こうして思い出してみると、並の優等生だった僕には、はるかに早熟で優秀だったA君の存在が心理的な負担になっていたことがわかる。A君は、今でもたまに僕の誕生日に突然電話をかけてきたり、昔の思い出を書いたメールを送ってきたりする。A君にとって、公立小学校という誰にでも開かれた場所での幼い級友たちとの生活がどんな経験だったのか、今になって聞いてみたい気もする。

 

『滝山コミューン1974』のレポートが終わってから、原武史の姿を何回かテレビで見る機会があった。神経質そうな硬い表情と抑揚のない話し方は、テレビを過剰に意識したものだったとしても、一見して「普通でない」人という印象を受けた。その印象は、僕がこの本から読み取っていた作者像と奇妙に一致するものだった。

早く自我に目覚めた早熟な原少年には、教師がかかげる「みんなのため」という目標が決して子どもたち一人一人のためにあるのではなく、結局は教師や一部の生徒たちの利益や満足のためであることを敏感に見抜いていた。原さんは、当時の教育が社会主義建設を目的にしたソ連の教育思想の影響を受けたものであることを暴くことで、子どもだった自分の直感の正しさを証明しようする。

読書会のレジュメでは、「滝山コミューン」は実際には成立していなかったのではないか、という問題提起した。同時期に同じような地域で育った実感からいっても、熱心だったのは一部の教師、生徒、PTAであり、その他大勢の考えはもっとバラバラだったはずだ。ただ、この「みんなのため」を至上命題とする教育思想に対して、たとえ傍観者であっても異を唱えずにそれを支えたという一点で、原少年はそこに欺瞞の共同性を感じ取ったのだろう。それは彼の頭の中で、滝山団地全体に広がったコミューンとして怪物化する。

原少年の自我は、この幻影の怪物にたった一人で立ち向かう経験によって形作られた。それがどんなに必死なものだったとしても、どこか現実離れした異様な姿勢や態度とならざるを得ない。この本を読む限り、大人になった原さんもそのことをほとんど自覚していないようであるが。

 

『滝山コミューン1974』が共感をもって受け止められたのは、この国の知識層が、公立学校という同質的な場所での集団主義的な言説の中から、その「欺瞞」を突くような形で自己形成を遂げた世代によって担われるようになったことを示しているのかもしれない。彼らがいらだち怒るのは、学校内部での自己欺瞞の臭いのする言葉なのであって、学校外の現実に対してではない。

この本のレポートの半年ばかり前に、読書会で高野さんがサイードの『知識人とは何か』の報告をしていた。サイードは知識人の役割を、抑圧されたものを見つけ出しそれを代弁することだと説明している。たしかに少し前までは日本でも、知識人の役割は、弱者に対する不正を告発し権力を批判することだった。ところが、新しい世代の知識人が熱心に取り組むのは、イデオロギーの批判、つまりは言葉の欺瞞に対する批判である。

そしてこれは、知識人に限った話ではない。ある世代以降に共通する感覚の問題として、僕たちにも無関係ではいられないことなのではないか。

 

これも5年ほど前に読書会でレポートした本だが、『嗤う日本の「ナショナリズム」』の中で社会学者の北田暁大は、70年代以降の精神史、文化史の見取り図を描いている。北田の錯綜した議論を大雑把に要約すると、以下のようになるだろう。

現実に直接かかわろうとするような「ベタ」な態度は、70年代にマルクス主義学生運動の行き詰まりとともに退潮する。そこから、ベタな態度に距離を置いてそれを嘲笑するような「メタ」な態度がもてはやされるようになる。さらに80年代には、現実とのかかわりを失ったところで、どちらがより最先端なのか、つまりメタのさらにメタを競い合うような態度が全盛となる。しかし、現実から完全に切れたゲームは長くは続かず、90年代終わりからは、ネット上でのナショナリズムや純愛志向など、再びベタへの回帰が見られる・・・

このような見取り図の全体がどこまで正鵠を得たものであるかは判断できないが、ベタとメタとの対立を軸として現代の精神のありようを見ていくという方法は、説得力を持っている。この視点から見れば、『滝山コミューン1974』は、一人の少年の先駆的な「戦い」を通して、ベタからメタへと時代が切り替わる瞬間を描いた物語と解することもできるだろう。また、原武史の愛憎入り混じった滝山コミューンへのこだわりは、研究者として様々なメタを遍歴した後の、一種のベタへの回帰ととらえることができるかもしれない。

いずれにしろ、僕たちが物事を見るときの無意識の方法が、現実のあり方そのものに目を向けることから、それがどのように言葉に写し取られているかに注意を向けることへと大きくシフトしたのは、間違いないことのように思われる。

 

【校正の後で】

普段の暮らしの中では、本を真剣に読んだり、物事を突き詰めて考えたりすることは全くといっていいほどない。この読書会に参加することで、かろうじて自分や他者、世界について思いや言葉をめぐらす機会を得ている気がする。

だから読書会では、レポーターの時はもちろん、そうでないときも真正面から自分の読みをぶつけるように心がけている。もちろん、それが見当違いだったり、その場での議論がかみ合わなかったりもするけれども、何年もかかって、そうした自分の読みの内のいくつかが細い糸でつながって、新しい「気づき」をもたらしてくれることがある。自己欺瞞をめぐる問題も、そうした収穫の一つだ。読書会を長く続けることの醍醐味だと思う。

※「読書会100回記念文集」所収