大井川通信

大井川あたりの事ども

法学部・経済学部・商学部

宮本常一の名著『忘れられた日本人』の中に、とある「世間師」(奔放な旅を経験しているお年寄)の印象的なエピソードが記されている。彼は名を左近熊太といい、現在の河内長野市の滝畑の出身。明治になって22歳の時に西南戦争(1877)で徴兵されるまで、字をまったく知らなかった。

村の者がほとんど字を知らないことでどれほど損をしたかわからないという。地租改正では村の林を官有林にされても誰も気づかなかった。30歳の頃までに文字を習い、世間を知ったおかげで、かろうじて払下げの手続きをすることができた。字と法律ほど大事なものはないと思うようになった。

彼にとって法律とは、国が勝手に設けた権力を行使する筋書きであり、文字によってそれを学ぶことで、国から小突き回されたり人からだまされたりすることを防ぎ、むしろ法律を盾に取って人をだます側に回ることもできるのだ。

法学部を卒業しておきながら、法を学ぶことの本質をこんなに見事に説明されたことはないような気がする。近代化の過程の中で「法律学校」が、そしてその系譜をひく「法学部」が重んじられたのは、このためだったのだ。巨大な国家権力を運営するためにも、またそれに対峙するために何よりも法律の知識が必要だった。

高度成長期という近代化の仕上げの時期に育った僕が、文系学部の最上位に位置する法学部を無意識に目指したのは、時代的な理由があったのだ。実際に入学してみると、法律学があれほどつまらなかった理由もこれでわかる。

後にポストモダンと消費の時代が始まると、法律以上に「市場の声」が重視されるようになって、経済学部の人気に火が付いた記憶がある。

それでは今はどうなのか。僕らの時代には、実学として一段低く見られていた商学部経営学部が人気のようだ。子どものうちから、いかに効率的にお金を儲けるかが至上命題とされ、そのための起業が奨励される時代には、そのための知識と技術を学べそうな学部が人気になるのは当然だろう。