大井川通信

大井川あたりの事ども

通勤電車の読書

通勤が自家用車の時は、本が読めないから、電車通勤がうらやましかった。音楽を聞いたり、英語の学習をしたりできるが、運転中の疲労と事故のリスクを考えたら、とても割の合うものではない。

電車通勤に戻って、往復で1日1時間は読書の時間にさけるようになった。すいぶんありがたい話だが、一年も経てばそれも当たり前になってしまう。近頃は、満員に近い社内で片道30分立っていることが苦痛になってきた。小説や評論を読んでいても、ついつい周囲が気になってしまう。同じ姿勢を続けると、足腰がしびれたりもする。

たまたま、文庫本のつげ義春の漫画集を購入して、疲れ果てた身体の帰宅中の満員電車の中で広げてみた。すると、あっという間に地元の駅について、棒立ちの身体を意識することもなかった。

漫画を読む習慣を失って何十年もたつけれども、20代の頃までは、人並みに漫画を読むのが大好きだった。そのころ好きだった漫画家を読み直すと、作品への没入のレベルがまるで違うことに気づく。やはり、僕には小説の読書はしょせんお勉強だったのだ。

翌日、たまたま柄谷行人の文春新書(雑誌記事をまとめたような軽い読み物)を電車内で開いてみた。昨年海外の哲学賞を受賞して高額賞金を得て話題になったことがきっかけで編まれたもののようだ。

自分が学生の頃に第一線で活躍していた憧れの批評家が、今でもまだ生産的に書き続けていることは驚きだし、励ましにもなる。学者ではなく批評家は、現実と切り結ぶアクチュアリティが命なので、旬の期間を維持することは難しいはずなのだ。

そんなことを考えながら、頁をめくっていると、今度もあっと言う間に目的地に着いてしまった。漫画だけではなく、若い頃に夢中になったものに対しては、脳と身体が独特の食いつき方をするようだ。

今までは、単にその時読んでいる本を継続して開いていたが、通勤時間の負担軽減のためには、いかに没入できるかという視点で本を選ぶことが大切だと、今さらながら発見する。