大井川通信

大井川あたりの事ども

時間が溶ける

職場の若い人とアニメの話をしていたら、「時間が溶ける」と聞きなじみのない言い方をしていて、面白いなと思った。調べると、かなり近年の若者言葉で、ゲームなどに夢中になって時間があっという間に過ぎてしまう感覚をいうらしい。

僕も近頃、通勤電車の中で漫画を読んでいる時に「時間が溶ける」感覚を味わった。そのことに特別感があったのは、年齢が増すと何かに没入して我を忘れるという経験が起こりにくくなってしまうからかもしれない。

学問的には、心理学の領域で「フロー体験」という概念があって聞きかじってはいた。こちらの方は、実社会への応用という側面からか、高い目標やそれを達成するための髙い技術等のおひれはひれが付くようだが、中核になるのは没入体験であることには変わりはない。

ただ「フロー体験」の充実ぶりと比べて、溶けてなくなってしまった、という語感のむなしさ、後ろめたさが気になる。例えば、優れた小説に没入して時間が過ぎてしまったとしても、後に残るのは満足感や充実感だろう。脳に直接特別な刺激を与えるゲーム体験が、時間の無駄遣いという感覚しか残さないことをうまく言い表している、といえるかもしれない。

違和感がもう一つ。溶ける、という言葉にまつわるドロドロ感、ベタベタ感が、没入体験のさわやかさ、スッキリ感となじまない感じもするのだ。

老年期にさしかかった人間にとっては、「時間が溶ける」という表現は、過去の記憶があいまいになっていくことの実感の方にふさわしい気がする。若い頃に明確だった記憶を収める小部屋の壁が崩れて、記憶の前後関係や因果関係がごちゃごちゃになってしまうのだ。もちろん、個々の出来事の輪郭も「溶けて」識別が難しくなる。

老年期の課題は、この時間(記憶)の溶融といかに付き合うかということだろう。毎日ブログを書いて自分の過去と現在を整理することも、そのためのささやかな抵抗である。