大井川通信

大井川あたりの事ども

八興社の思い出(その2)

北九州市でホームレス支援で有名なNPO法人が新しい施設を作ろうとしたとき反対運動が起きたことが話題になった。他にもそうした「迷惑施設」の建設に近隣住民が反対するニュースをよく目にするようになって、はじめてあの八興社はどうだったのだろうと思いついた。普通に考えたら、刑期を終えた人の入所する更生保護施設は、住民が反発する最たるものであることに気づいたからだ。

僕の知る八興社は、そんな場所ではなかった。親をはじめとする大人からも、遊び仲間の子どもたちからも、八興社を悪く言ったり、特別な場所のようにうわさしたり、避けたりすることを見聞きしたことは、まちがいなく一度もない。

だから、八興社の寮のある前の道も、家の近所の親しい街路の一つとして、僕にとってなんの差別も区別もない場所だった。成長する中で、八興社の施設のことを知ったはずだが、立派な仕事をしている偉いお店というイメージ以外のものを持たなかったような気がする。篤志家、という言葉を知ったのも八興社について家族から話を聞いたときだったと思う。

この感覚は、僕の原体験として大切なものとなった。戦後の市民社会のふところの広さをしめす、記録されざる事実のように思えたからだ。

今回、八興社のことをさらに知りたくなって、ネットの情報を調べてみた。八興社は昭和17年(1942年)に国立の地に作られて、80年以上の歴史をもつ。当時周辺は区画整理だけされた野原だったはずだから、八興社はいわば草分けだったろう。あとから越してきた人たちにとって既にそこにあった施設だったわけだ。

戦後になって、周辺には都営住宅も作られ、満州からの引き揚げ者も多かったなど、住民の間にも多様性があったし、敗戦による価値観の逆転があり、「犯罪」に対する忌避も今ほどではなかっただろう。

やがて、国立は、米軍の基地への反感を核とした文教地区指定運動が盛んになり、市民運動のメッカになる。僕が子どもの頃の1960年代以降も、近所では日照権を巡る運動や歩道橋景観論争による運動などに母親も借り出されていたが、左翼的な感覚をベースにした市民運動が直接の「弱者」に向かうことはなかったのだろう。

パンを生産して、それが地域の暮らしを支えていたという関係もよかったのだろうと思う。コンビニもスーパーのない時代に、地元のパン屋さんの威光は絶大だった。

平成22、23年(2010年、2011年)に、八興社の建替え計画をきっかけにして、例にもれず国立でも、地元住民が要望書を出すなどの反対運動があったようだ。そのころには国立もすっかりこぎれいな街に生まれ変わり、戦後の面影などかき消されてしまったから仕方ないことのような気がする。パン屋も廃業し、地域との太いつながりも失われていた。

地域との協定により、軽犯罪者(窃盗、詐欺など)のみの受け入れに限った上で、定員を30名から35名に増員して建替えを実施できているから、反対運動も国立と八興社の半世紀にわたるきずなを断ち切るような力は持たなかったのだと思う。八興社を大切に思う住民も残っていたのだろう。その後、施設の経営母体の合併によって、現在では八興社の名前も消えてしまったようだ。

長年の宿題の『破獄』をぜひ読んでみたいと思う。